耳を貸さない者同士のエセ対話が跋扈(ばっこ)するだろう.
体裁だけの、名ばかり対話を払拭して、対話効果を追求しなくてはならない.
これは対話を実践するうえでの(praxis of dialogue)、中核的課題であり、全人類的な課題である.
課題さえ認識し、設定すれば、ひとは多くの事柄を解決していくことができる.重要なことは、課題を、課題として認識することだ.
もっとも、課題を課題として認識し、そして認識された課題を、他の人びとと共有するには、それを表現する言葉がいる.ここでいうなら、対話効果が、その言葉にあたる.
対話とは何か.それは問答である.雑談は、普通、わざわざ問いを立てたりはしない.
ここに一本の線を、横方向に引くと、一方の極に雑談(chat)があり、他方の極に対話(dialogue)がある.両者の中間形態が会話(conversation)である.
こういうわけで、会話はときに雑談の様相を見せ、ときに対話へと傾斜し、発展していく.知的な用語を介在させながら、らせん状の共同思考が展開するとき、それは知的対話となる.
通例、プロジェクトを進めるとき、時と場に応じて、つまり局面に応じて、私たちはこの3つの様式——雑談・会話・対話——を、かわるがわる使いわけるものだ.「ダイアログをしましょう」といって、出会い頭からダイアログが始まるものでもない.
雑談アプリにすぎないものでも、時世に便乗して、対話アプリ、と空疎に銘打つものも出てくるだろう.だが対話は、時代のなかで安易に費消される一過性のキイワード、ないしバズワードではない。
もっとも緊張緩和効果や参加促進効果など、雑談にも創造的側面がある.
これほど多様性が云々(うんぬん)され、対話の重要性が連呼されるようになったわりに、「多様性の中の対話」を語るものは少ない.
第3ミレニアムの激動期を迎え、「多様性の中の対話」が必要不可欠な時代になった.イノベーションや創発推進のために.社会の再生のために.文明の再構築のために.つまりは人類の思考と歴史を拓くために.