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Some postcards for a post-disciplinary approach —新しい「知と方法」へ—

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Game of Worldmaking

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持続可能な開発。

この言葉が現れるまで、環境活動家と実業界のトップが互いに意見を交わすことは、ほとんどなかった。

環境保護主義者は、社会的アクティビストとして、小規模な団体をつくって活動するばかりで、影響力をもたなかった。そして彼らは、すべての実業家は、宇宙船地球号を破壊へと導く精神錯乱者だと思っていた。

一方、実業家たちは、環境保護主義者のことを、あらゆる技術的進歩を阻止することで頭がいっぱいの「エコナッツ」(熱狂的な環境保護論者)や「ラッダイト」(技術進歩反対論者)であると考えていた。

ところが、国連のブルントラント・リポートが「持続可能な開発」という言葉を初めて使用すると、変革の波が、瞬く間に世界に拡がっていった。

ある日を境に、実業家、政治家、そして環境保護主義者が、共通のテーマに向き合うことになったのである。


以上のエピソードは、《生成のターム》と《生産のターム》の観点から言語分析することができる。

《生成のターム》とは、人々の認識、行動、理想に新たな基準を生み出す用語を指す。「持続可能な (sustainable)」がその一例であり、社会や環境の未来を形作るための変革的な言葉として機能する。分析家のG.R. BusheとJ. Storchは、次のように述べている:「過去50年で、生成的イメージを象徴する言葉の一つが『持続可能な開発』である」。この《生成のターム》は、持続可能な社会構造や人類の生存環境を構築するための鍵となり、生物社会的な変革(bio-social change)を促す用語群を包含する。

一方、《生産のターム》は、従来の認識、行動、理想を再生産する用語を指す。例えば、「開発」という言葉は、ビジネス界で長く支持されてきた伝統的な価値観を反映し、既存の枠組みを強化する役割を果たす。

冒頭のエピソードでは、「持続可能な」と「開発」という二つの言葉——《生成のターム》と《生産のターム》——が結びついた「持続可能な開発」が取り上げられている。この用語は、立場の異なる人々の認識と行動を再設定し、現代世界に新たな潮流を生み出す上で重要な役割を果たした。

人間の認識や社会的な実践は、言語によって形成される(ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン「言語ゲーム」)つまり、新たな概念を導入することで認識の枠組みが変化し、行動や社会構造にも変化が生じる。「持続可能な開発」は、実務家、政治家、環境保護推進者という、従来は関わりが乏しかったり、対立したりしていた三者の間に、共通の目標と理想を設けた。この用語は、未来志向の対話と協働の場を創出し、彼らの相互作用を促す媒介として機能したのだった。

 

 

 

λανθάνω(ランタノー)

by shidarapress

井筒俊彦です。今日は1つのギリシア語を入口に、「気づき」について、考えてみたいと思います。

いわゆる主客未分は、ここでは問いません。主客が分岐・対立している通常の経験的意識に、対象認知が起こる場合、そこへのアプローチの仕方は、言語慣用の規制力によって、つねに強力に限定され、方向づけられます。

たとえば、ギリシア語に λανθάνω(ランタノー)という動詞があります。今まで気づかなかった、というような意味でよく使われる動詞ですが、慣れないうちは、その用法がなんとなく不自然に感じられます。日本人の現在の言語慣用に反するからです。

「私はXに気づかずにいた」と日本人ならごく自然に使うところを、昔のギリシア人は「Xが私から隠れていた」と言う。主体の能動的動きに焦点を合わせるか、客体のあり方を強調するか、存在意識のパタンのちがいなのですが、そのいずれに優位を認めるかによって、認識論はもとより、形而上学も真理論も、決定的に異なる色合いを帯びてくることが、当然、予想されます。

「ランタノー」は、何かが隠れている、隠されている、状態を意味します。だから、私はそれに気づかない。

世界はランタノーで満ちています。

世界はランタノーにあふれ、「Xは私から隠れている」。ですが時として、突然、覆いが取り払われることがある。ふと何かに気づき、その意外性が心を撃つ。それをアリストテレスは「驚嘆」と呼び、「驚嘆」こそフィロソフィーの始まりである、と言うのです。なぜそれが、フィロソフィーの始まりなのでしょうか。彼によれば、驚きは、問いを生み、それは知的な自己展開を生み出すからだ、というのです。

「気づく」とは、存在にたいする新しい意味づけが起こることを言います。一瞬の光に照らされ、いままで意識されていなかった存在の一側面が開顕し、それに対応する主体の側に詩が生まれる。「気づき」をもたらしたきっかけがどんなに微細、些細なものであっても、こころに沁み入る深い詩的感動につながることがあるのです。

芭蕉の俳句にはそれが目立ちますね。「山路来て」「薺花(なずな)さく」「道の辺の木槿(むくげ)」をはじめ、その例は無数。このような、ふとした「気づき」の累積を通じて、存在の深層を探ってゆくのです。

さて、アリストテレスの場合、「驚嘆」は「問い」になり、原因と本質の探求へと向かっていきます。ところが、同じく「気づき」による「驚き」でも、日本詩人の場合はちがいます。それは彼を新しい知的発見に向かって進ませるよりも、むしろ「主客を共に含む場」にたいする、意識の実存的深化に彼を誘うのです。

もう少し別の言い方をしてみましょう。「気づき」は、ここでは、新しい客観的対象を客観的に把握することではありません(not discovery)。むしろ、それは、「意味」生成の根源的なトポス(場所)である、下意識領域のなかで、新しい「意味」結合が起こることです。「気づき」は、日本的意識構造にとっては、そのつど、そのつど、新しい「意味」連関を創りだしていくことであり、新しい存在事態の創造を意味するのです(invention)。「気づき」の意外性によって、下意識領域に潜む、無数の意味関連の流動的ネットワークに、微妙な変化が起きるのです。

「主客を共に含む場」にたいして、新しい「意味」の連鎖連関、あるいは意味の生態系を創りだしていく。古来、日本人は、この種の体験に強い関心を抱き、研ぎすまされた美的感受性の冴え、を示してきました。

これは、日本的精神文化そのものを特徴づける創造的主体性の、決定的に重要な一局面、ということができるのです。

井筒俊彦 2009『読むと書く』 慶應義塾大学出版会より編集・作成

設樂剛事務所

いろあげ

by shidarapress

漢字では「色揚げ」と書きます。意味は、古い布をもう一度染めて美しくすること。よのなかが古い布でおおわれているとき、このことばは魅力をもって響いてきます。

設樂剛事務所