shidara press

Some postcards for a post-disciplinary approach —新しい「知と方法」の探究—

デモクラシーの欠陥

 

デモクラシーの原理とは多数決原理であり、デモクラシーとは多数派支配を意味する。以下は、デモクラシーには欠陥があるという話。それにしても《支配》という、この分野特有の用語感覚には違和感を禁じえない。

◉ プラトンは、政治システムを次の6つに分類した。まず、単独者が支配する政体、少数者が支配する政体、多数者が支配する政体の3つに区別できる。さらにそれぞれが、法を遵守する形態と、法を軽視する堕落した形態とに区分できる。

意外に見落とされがちだが、デモクラシーの原理とは多数決原理を意味する。だから「民主主義」の語訳で知られるデモクラシーは「多数派支配」を意味する。

統治形態 遵法精神(重視) 遵法精神(軽視)
・単独者支配 王 政 僭主政
・少数者支配 貴族政 寡頭政
・多数者支配 良民政 民主政

プラトンによれば、単独者支配は、法の精神が重視されているとき最善である。それが王政である。だが、法の軽視となると逆に最悪となる。それが僭主政である。少数者支配は、単独者支配と多数者支配の中間に位置づけられる。多数者支配は、あらゆる点で弱体であり劣悪である。ただ、それ以外の政治システムが法の精神を軽視する場合、つまり僭主政と寡頭政の場合、民主政はそれらに比べれば、ましである。

ましというだけで格段に良質でもなく、プラトンはデモクラシーには欠陥があると考えていた。事実、彼の場合デモクラシーを根本的に否定する方向へ向かう。ソクラテスの死(前399年)の責任は、デモクラシー(多数派支配)にあると考えていたからである。

reference to this page: 柄谷行人『哲学の起源』2012, p.214-216より編集・作成. note: プラトンは『ポリティコス』(Politikos -政治家-)のなかで6つの政体を区分した/デモクラシーに欠陥があるとする見解はプラトン、アリストテレス(Aristotle, BCE 384-322)、ホッブス(Thomas Hobbes, 1558-1679)、ルソー(Jean-Jacques Rousseau, 1712-1778)らも同様/クセノフォン(Xenophōn, BCE 426-355, ソクラテスの弟子)によれば、この6つの区分はプラトンの独創ではなく、ソクラテスもこのように考えていた。プラトンがつけ加えたのは、これら政治システムの価値づけ/王政 (monarchy), 僭主政 (tyranny), 貴族政(aristocracy), 寡頭政 (oligarchy), 良民政 (polity), 民主政 (democracy) 。プラトンは、以上のような比較の上で、この6つの政治システムとは別に第7の政体を提案した。その考え方は、ソクラテスのような哲学者が統治するときに理想の国家ができるというもので、これは「哲人王」による統治形態である。世界史のなかから事例をとれば、ボルシェヴィズム(レーニン主義)がそれに該当するとされるが、ソ連邦崩壊とともに「哲人王」の理念は消滅。他方アリストテレスは、王政→僭主政→貴族政→寡頭政→良民政→民主政のあと、再び王政に還るとする循環論を唱えた。これは民主政によって衰退したポリスに、人並み外れた徳をもつ指導者が現れ、ポリスを再興する(=王政に還る)というもの。対して『哲学の起源』では哲人王でも王政復古でもなく、「イソノミア」という理念が提案される。ここでソクラテスは、イオニアの思想と政治(イソノミア:無支配)を回復しようとした最後の人であることが示される。ところが当のソクラテスのこうした思想とは異なり、プラトンはソクラテスの名を借りて、哲人王による支配を説いてしまう。そこを『哲学の起源』では次のように記している。「ソクラテスにおけるイソノミア(無支配)の追求は、プラトンにおいて哲人王による支配に転化された」。プラトンのなしたことは「『支配』の揚棄ではない」と/イソノミア〔GK  isonomía〕iso- ísos: equal + nomos: law, usage, custom. 本書でこの語は、支配との対比で無支配と翻訳されている。isonomíaという言葉は、立場の異なるもの同士が対等に関わりあう場や状態を連想させる。ソクラテスの対話は、政治的な公的領域とも、家事労働の場である私的領域とも異なる、コイノス(κοινός  or コイノンκοινóν)という第3の場で行われていたという。そこは市民だけでなく、外国人、女性、青年、奴隷などからも構成される多様な交流の場であり、公職に就いて行う公務の場ではないが、共同活動を営む生活の場であった。

異質で創造的であるためのレッスン

創造的な企業家たちがイノベーション(新結合)を実現することでビジネスは発展する。そんな見方を打ち出したのが、皆さんご存じのジョセフ・シュンペーターである。これは『経済発展の理論』の中で語られるが、本書は、オーストリア=ハンガリー帝国で最東端の辺境都市チェルニウツィ(Chernivtsi)で書き上げられた。

heterodoxは《hetero + dóxa (← dokeín : to think )》であり、確立された学説や方法とは異なるものの見方や考え方を指す。だから次のような意味をもつ: not agreeing with established beliefs or standards.

経済学の見方には、古典派以前、古典派、新古典派といった分類の他に、そのいずれにも属さないオルタナティブ学派があり、さらにその中にheterodox traditionsというカテゴリーがある(cruel.org/econthought/thought.html)。そこにはソースティン・ヴェブレン(アメリカ制度学派)、ジョセフ・シュンペーター(イノベーション)、ロベール・ボワイエ(フランス・レギュラシオン学派)、イマニュエル・ウォーラースティン(世界システム学派)などが含まれる。一人ひとり見ていきたいがここではシュンペーターだけ。1909年、彼は、今はウクライナに属するチェルニウツィ(Chernivtsi)にいた。ここは当時オーストリア=ハンガリー帝国領の最も東の端にある辺境都市で、ユダヤ文化の中心地でもあった。チェルニウツィ大学に所属していた彼は、この地で一冊の本を書き上げようとしていた。それが『経済発展の理論』だ。この中で彼は企業家精神の理論を語り、恐れ知らずで創造的な企業家たちが新結合(new combination)を実現することでビジネスは発展する、と説くことになる。そして、この「新結合」の語は、1939年の『ビジネス・サイクル』の中で「イノベーション」と言い換えられ、1942年の『資本主義・社会主義・民主主義』の中で「創造的破壊」と呼ばれることになる。それはイノベーション(新結合)が旧結合の世界を淘汰していくプロセスを表現したものであった。

note : ソースティン・ヴェブレン(Thorstein Bunde Veblen, 1857-1929)/ジョセフ・シュンペーター(Joseph Alois Schumpeter, 1883-1950)/ロベール・ボワイエ(Robert Boyer, 1943- )/イマニュエル・ウォーラースティン(Immanuel Wallerstein, 1930- )/オーストリア=ハンガリー帝国(Austria-Hungary, 1867-1918)/『経済発展の理論』(The Theory of Economic Development: An inquiry into profits, capital, credit, interest and the business cycle.  Translated from the original German, Theorie der wirtschaftlichen Entwicklung, 1911) /『ビジネス・サイクル』(Business Cycles) /『資本主義・社会主義・民主主義』(Capitalism, Socialism and Democracy)

⊆ 設樂剛事務所

1926年のノーベル文学賞

ビジネス論のなかで愛を語る領域に、フィランソロピーがある。これは《phil + anthropos》つまり人類愛を意味している。1926年、文化的アナキストと呼ばれたカール・クラウスは、ノミネイトされたもののノーベル文学賞を獲ることができず、愛を歌い上げたイタリアの詩人グラツィア・デレッダが受賞する。人間の欲望から、ひとつは愛が芽生え、もうひとつは経済が芽生えたとすると、両者は人間の欲望という大地から芽生えた雙葉である、ということができる。これに対応して、現代ビジネス論には、一方に人類愛を語るフィランソロピーの言葉があり、他方に、”show me the money”に結局は収斂される戦略論や新古典派経済学の言葉があって、いまや経済の子葉ばかりが極端に肥大化し、異様な奇形植物のようになっている。今後この両者を含み込む、母なる大地について語る詩人がビジネス界に必要とされるだろう。

◉ 1926年、カール・クラウスがノーベル文学賞にノミネイトされる。受賞者はイタリアの詩人グラツィア・デレッダ(Grazia Deledda, 1871-1936)だった。サルディニア島のヌオロ(Nuoro)に産まれる。島の人だった。大学図書館に行かなくとも、一般にも手に入りやすいものとしては、百年文庫77『青』のなかにグラツィア・デレッダの「コロンバ」が収録されている。アントニオと田舎娘コロンバの話。「ぼくはもう誰とも結婚なんかしないよ」。失恋し、傷心して帰郷したアントニオだったが、美しくひたむきなコロンバと出逢い、思いがけず愛の情熱を知る。郷土の自然と人間を写実的に描いて高い評価を得る。

自発性(誰もが発揮できるもの)

『経営の美学』(2007, 日本経済新聞出版社)には、資生堂名誉会長の福原義春 氏に、ぼくの人生観が変わった、とまで言わせた逸話が収められている。ニューヨーク・メトロポリタン美術館での出来事だが、氏を変えたのは自発性を発揮した市民たちであった。だが、当の市民は相手を変えようとは一切思っておらず、ただ身のまわりのこと、自分にできることで自発性を発揮しただけだった。自発性は、その気になればいつでも誰でも発揮できるもの。人間社会の不思議を説いた、示唆に富む現代の寓話をご覧いただこうと思う。

◉ 福原義春が、自発性の重要さについて、ニューヨークのメトロポリタン美術館でのメモワールを語っている。資生堂が協賛した「アメリカン・バロック展」という展覧会があり、ニューヨークの出張と重なった福原は、レセプションに出かけた。その日に限って、受付からキュレーター、ピストルを持ったガードマンまで、にこやかに「いらっしゃい」と迎えてくれ、アメリカではこれまで経験したことのない、ホスピタリティに溢れる対応を受けた。後の予定があったので、ロダンの彫刻やその他の展示を巡り、一時間ほどで出口に向かった。するとホストの女性が追いかけてきて、「あら、もうお帰りですか。さっき来たばかりではないですか。もっとゆっくりしていらっしゃれば」と引き留める。受付でも「もう帰るのですか。もっと皆さんとお話ししていらっしゃればいいのに」と誘われる。現地法人の社長たちと会食が予定されていた福原は、丁重にお断りして会場を立ち去った。

会食で、当時の社長アンディー・フィリップに尋ねた。「ぼくは、20年ほど前アメリカに住んでいたが、あの頃は公共の場所でのホスピタリティはまったく感じなかった。でも、今日は美術館で、まるで家庭に招かれたような親切に出合ったが、アメリカの社会は変わったのか」と。すると彼は、こう答えた。「何も変わっていませんよ。ところで、今日は何曜日か知っていますか」と聞くので、月曜日と答えると「月曜日は美術館の定休日です。今日あなたがお会いになったのは、全員ボランティアですよ」。

この話に福原は衝撃を受けた。高いサラリーをもらっているのに働いていないような人がいる一方で、ほとんど無給のボランティアであんなにいきいきと、しかもとても親切に働いている。これは一体、どういうことなのか。その後ずいぶんと考えたり、いろいろな人びとと話したりする中で分かったのは、自発性の重要さであった。これまで経済合理性だけを追求し、人間を組織の歯車やシステムの部品とみなしてきた結果、個のモチベーションは低下し、自発性が消失ないし発揮されなくなってしまったのではないだろうか。

このような思いに至った福原は語っている。以来、私の人生観は大きく変わりました、と。このころ、日本では成果主義が提唱され、それを導入する企業が増えていく。その後、下火にはなったものの、当時福原は、札束で成果を引き出すというのは、何か「人間の原理」を見誤っているのではないかと述懐している。

reference to this page: 『経営の美学』2007, p.5-7より編集・作成.  note:  福原義春(1931-), 駒井哲郎(1920-1976)のコレクターとしても知られる/札束で成果を引き出す・・・ビジネスを含む、およそ人間の共同社会に関する学問が前提とする人間像の中に「経済的動物」としての人間というものがある。この見方によれば、人は経済的な目的や報酬によって動機づけられるとみなされる。福原氏もむろん経済的動機づけの一定の有効性は承知しているが、経済的動物というコンセプトは、人間を見るときにあまりに一面的ではないかと考えていることが窺える/メトロポリタン美術館(The Met, The Metropolitan Museum of Art, 1870- )/ Thomas Hoving(1931-2009),  Making the Mummies Dance: Inside the Metropolitan Museum of Art, 1993.(トマス・ホーヴィング『ミイラにダンスを踊らせて』, 2000)

⊆ 設樂剛事務所

カール・クラウス:知的アナキスト

shidara pressでは、世界史の中で人間が創造性を発揮した場面を折々に取りあげている。人間の知的創造性といえば、ウィーン生まれの科学哲学者ポール・ファイヤアーベントは、知(science)の新たな展開や創発を妨げない重要な原則は「Anything Goes!」だと語った。これは従来の個別科学(discipline)が採用する方法への挑戦であり「知のアナーキズム」だった。この意味でのアナーキズムは、政府を批判する無政府主義のことではなく、既成の権威ある学問のあり方や、正統的とされる方法論を批判し、新たな「知と方法」の可能性を探究する、創造的な知的態度を指す。以下はサイエンスの分野ではないが、文化的アナキストと呼ばれたカール・クラウスに対するいくつかの評判だ。じつに賛否の激しい人だった。

◉ カール・クラウス(Karl Kraus, 1926年ノーベル文学賞ノミネイト)については、村山雅人『反ユダヤ主義:世紀末ウィーンの政治と文化』で1章が割かれている(第7章)。章題は「文化的アナキスト クラウス」である。そこでは、クラウスが「オーストリアの文学史において唯一無二の存在」であり、「知的テロリスト」として描かれている。賛否の激しい人だった。味方は多くなかった。賛同者の声をいくつか拾っておく———「このアンチ・ジャーナリストにたいして、しばしば心からの感動」を感じた(ヘルマン・ブロッホ)/「カール・クラウスは、唯一偉大な、倫理観に裏打ちされた論争家で風刺家である」(テオドール・ヘッカー)/「聡明な友」であり「われわれの時代第一級の作家」(ベルトルト・ブレヒト)/「神や自然から遠くかけ離れてしまった人類に途を示した人物」(アドルフ・ロース)。クラウスに対する敵対者の声からもいくつか。「ツァラトゥストラの猿」(アントン・クー)/「オーストリアの墓掘り人夫」(ヨーゼフ・ロート)/「名うての悪ガキ」(シュニッツラー)/「世間の人びとに嫌悪を呼び起こす存在以外の何者でもない」(フランツ・ヴェルフェル)。

note: カール・クラウス(Karl Kraus, 1874-1934)/ポール・ファイヤアーベント(Paul Karl Feyerabend, 1924-1994)/ヘルマン・ブロッホ(Hermann Broch, 1886-1951)/テオドール・ヘッカー(Theodor Haecker, 1879-1945)/ベルトルト・ブレヒト(Bertolt Brecht, 1898-1956)/アドルフ・ロース(Adolf Loos, 1870-1933)/アントン・クー(Anton Kuh, 1890-1941)/ヨーゼフ・ロート(Joseph Roth, 1894-1939)/シュニッツラー(Arthur Schnitzler, 1862-1931)/フランツ・ヴェルフェル(Franz Werfel, 1890-1945)

カフェ「グリーンシュタイトル」

フェリックス・ザルテン(ディズニー映画『バンビ』の原作者 )は次のように語る。若きウィーン派のたまり場、それはミヒャエル広場にあったグリーンシュタイトルであった。ブリュンから裕福な若者エドアルト・ミヒャエル・カフカが、ここにやって来た。彼は非常に温和で、いかなる文学的努力にも感激した。彼は月刊誌「現代文学」の発行を通じて、あらゆる人びとの青春の活動に奉仕する身となった。ヘルマン・バールがパリから帰国し、われわれの仲間に加わった。かれは千鳥格子のパンツに、褐色のビロードの上着といった、完全にモンマルトル族の服装に身を包んでいた。それに山高帽までかぶっていた。かれは、言葉や文章を通してすべての人たちを鼓舞し、刺激した。

reference to this page: 村山雅人『反ユダヤ主義:世紀末ウィーンの政治と文化』1995, p.213.を加筆・編集.  note: フェリックス・ザルテン(Felix Salten, 1869-1945)/グリーンシュタイトル(グリーンシュタイドゥルとも, Cafe Griensteidl )/ヘルマン・バール(Hermann Bahr, 1863-1934)

 

江戸幕府を支えた学問

1630年、47歳を迎えた林羅山は、東京・上野の忍岡(しのぶがおか)に学寮を建て、「忍岡学塾」を開く。土地は3代将軍家光が与えた。羅山は、徳川家康から4代将軍まで仕え、初期江戸幕府の基盤形成におおきく関わった朱子学者であり、博物学的な知性をもっていた。羅山と家康の関係からも分かるように、朱子学は幕藩体制を支える理念になっていく。師匠の藤原惺窩が、羅山を家康に繋いだ。忍岡学塾(1630)は、のちに湯島聖堂学問所(1690)に、さらに昌平坂学問所 (1797)となり、官立学校・昌平学校(1868)へと続いていくが、明治に入って閉鎖・廃止に。なお福沢の私塾は、1866年その名を慶應義塾と改める。

note: 忍岡の名は現在も残っている。東京大学 本郷キャンパス裏手の台東区立忍岡小学校や、上野恩賜公園を挟んだ、鶯谷駅近くに位置する台東区立忍岡中学校など/藤原惺窩(1561-1619)幼少の頃に僧侶となるも仏教への疑問から儒学の世界へ/林羅山(1583-1657)/徳川家康(1543-1616)/徳川家綱(4代将軍, 1641-1680)/湯島聖堂学問所(1691年, 林信篤に始まり、林家が代々、大学頭に登用されていく。だが明治に入ると儒学は新時代を先導する学問とはみなされなくなる)/福沢諭吉(1835-1901), 1858年に私塾を開き1866年に慶應義塾と改称/東京大学の歴史

⊆ 設樂剛事務所