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Some postcards for a post-disciplinary approach —新しい「知と方法」の探究—

未来への予言書

吉本隆明は、「病的な人物しか登場しない純文学は、未来への予言書である」と、なんとも看過しがたいフレーズをのこしている。一方では、目下、又吉直樹氏が現れたことで純文学的なものに触れる人びとの幅がひろがり、他方ではドストエフスキー熱が再燃しているが、とくに後者の物語にはたくさんの《病的な人物》が登場する。「ドストエフスキーは、未来への予見に満ちた驚くべき作品群である」(江川卓)という見方は、いまも色褪せてはいない。

新しさの目安

説明がむずかしいのは、その存在や実践が新しいから。説明するための用語や言葉が確立されていないので、従来のものと区別するには多くの言葉が必要になってくる。

人間にとって食べることの意味

山極寿一:わたしたち人間が日常やっていることですが、サルには絶対できないことがあります。たとえば、机で向かい合って一緒に食事をするというのは、サルには絶対できない。だけど、ゴリラはできる。ただ、自ら食物を運んできて、仲間と「さあ、一緒に食べましょう」と提案することはゴリラにはできないんです。

わたしたちは「食べる」ということを通じて、単に生命維持だけではなく、気持ちを通じ合わせるということを副作用として受け取っています。食べるっていうのは、コミュニケーションなんですよね。それはおそらく何百万年もかけて人間が築き上げてきた食べ方で、それがもう体に染みついているはずなんです。ところがそれをやめると、どんどんサルのような人間関係、いやサル間関係に変わっていってしまう。

——じゃあ、人間が個食ばっかりしていると・・・

寿一:サルになります(笑)

reference to this page: kotoba, No.20, 2015, p.159.をもとに編集・作成  note: 人間はhuman beingではなく、human becomingである。ただし放っておくと、そこにはサルに「なる」可能性も含まれている——

壮大な関係の網の目

人間も自然も —つまり社会現象であれ、自然現象であれ— この世界は、壮大な「関係の網の目」の中にある。

インターミディエイターの責任

インターミディエイターが止まると、その先の動きも止まってしまう。あいだが止まるのだから、両側が止まると言ってもよい。止まるということは後退するということである。その意味で、インターミディエイターの責任は大きい。インターミディエイターは安定稼働できることが、ことのほか重要である。

マーケティングの担い手さまざま

複合化する生活課題に有効に対処するには、自分たちがカバーする範囲をこえて、商品やサービスの組み合わせを考える必要がでてきます。だから自ずと他のプレイヤーとの連携を考えることになります。21世紀のビジネスは、ひとつの組織だけで完結しにくいもので、近年では、企業が地域コミュニティに出て行くと、他の企業との関わりが生まれるだけでなく、大学、ボランティア、行政、NPO、NGOとの関わりが生まれるなど、じつにさまざまな「関係の網の目」が形成されています。立場の異なる者同士がいかに連携をし、関わり合って、より望ましい状態をつくりだすことができるか。これが時代のテーマであり、今日のビジネス課題であり、現代マーケティングの問題意識なのです。

 

◉ 環連リンク:
H. Heterology( タテ割を超え、超領域的アプローチへ )

中間団体の現代的意義

ブラック企業が生まれるのは、悪質な経営者がいるからではありません。「資本の論理」自体がブラックだからです。つまりブラック企業とは、資本主義の純化した姿です。現代社会が資本の論理をさらに追求していけば、今後「社会全体がブラック企業化」していくことは避けられません。

では、資本主義の暴走をどう抑え込めばいいのか。「革命」が無効であることはすでに明らかなのですから、別のかたちで資本主義の暴発を抑える術を考えなければなりません。その処方箋は、労働組合、宗教団体、非営利団体といった「中間団体」の力をつけていくことだと、私は考えています。佐藤 優

reference to this page: kotoba, No.20, 2015,p.71.  note: 資本主義の全否定ではなく、暴走する資本主義をどう抑制すればいいのかという問い/こうした団体だけがインターミディエイターではないが、ここには中間的存在の重要性が特筆されている/「中間団体」あるいは「中間集団」とも言う/ブラック企業というのは唐突かもしれないが、この話の前に、ブラック企業がいまだ根絶されない理由として、「労働力の商品化」の観念が挙げられている。それによれば資本家は、働き手が生活できるぎりぎりのラインまで賃金を下げて、利潤を増やそうとする。またそれによって、人間が本来もっていた「働くことの歓び」が奪われているという。

革命のパラドクス

革命は夜明けを意味しない———。革命のパラドクスを一言で要約すればこうなる。

人間社会の観察者A. トクヴィルは、かつてこう見抜いた。「革命は旧体制を撤廃しない。むしろ拡充する」と。彼が指摘したように、フランス革命後に残ったのは、あいかわらずの官僚制支配だった。政治、経済、学術、芸術の中心地はパリに残ったままであった。

ロシア革命がもたらしたものも農奴制であり、秘密警察であり、融通の利かない官僚制度だった。つまり、ロシア革命を推進した自由主義者たちがもっとも嫌悪したもの、すなわちツァー体制の中核は、したたかに温存されたままであった。そしてこのことは、毛沢東の文化大革命についても該当する、ということができる。

これこそがまさに、革命という神話であり、「革命は夜明けを意味しない」というパラドクスである。ここでトクヴィルによって指摘されたのは、革命という言葉のもつ甘美なイメージに反して、急進的な社会変革の限界であった。

note: A. Tocqueville, 1805 – 1859.

  欧州に現れた世界3項構造の実験      —インターミディエイターの出現—

フランス大統領選は、5月の決選投票を前に「右でも左でもない」中道派が大躍進している。その顔となるのがエマニュエル・マクロンだ。極右政党・国民戦線の党首ルペンを破るとの情勢分析も現れている。しかし、ここには「右でも左でもない」ことの苦悩があり、大統領当選後に待ち受ける「試練」があるという。何かと思えば、それは、続く6月に行われる議会選挙で「右と左」、すなわち既存政党と闘わなければならないことを指している。右とは共和党であり、左とは社会党である。

大統領になったからといって辣腕を振るえるわけではない。大統領権限の多くは首相の支持を必要とし、首相の任命は議会の同意を要する。よって、議会で過半の議席を得られなければ、大統領として真の政治力を手にしたとは言えない。Newsweekは、マクロン率いる政治グループ「前進!」が、自らのアイデンティティを確立して、議会で過半数を取れるか? と問うている。過半数を取れなければどうなるか。左右どちらかと連立を組むことになる。この関係に身動きがとれなくなれば、「右でも左でもなく、前進を」との大義が損なわれるという。

「世界は3項構造でできている」とする認識論では、〈中間〉というのは立派な存在項だが、右か左でなければ明確なアイデンティティを確立するのに苦労するだろうというのは、世界は2項でできているという2元論が背後に控えている。両者の〈中間領域〉という存在は存在ではなく、何もないに等しい。

「どこからともなく現れた中道政党が、フランス議会で過半数をとった歴史はない」とフィリップ・マルリエール(ロンドン大学教授)は語る。だが「フランスではもはや左も右も時代にそぐわないし、中道派はいまや強力な新勢力となっている」 「今後の展開は読めない」とマルリエールは続ける。だが言えるのは、中道派が大統領に当選すれば「フランスの政治が再構成される」ということだ。中道派マクロンの大統領選出は、フランスは未知の領域に突入することを意味する。

ここには、第3項である〈中間領域〉から環境を再構成していく「インターミディエイター」現象の萌芽が見られる。右と左という2分法のメガネでは見えにくい勢力。それゆえアイデンティティの脆弱性を問われてしまう存在のように書かれているが、そうではない。世界を3項構造で見る者からすれば、ここには極端さと単純さに代わるもうひとつの選択肢と、素朴な2分法を超えた新たな知性が示される可能性がある。

右派・左派という言葉の起源となったフランス政界で、そのどちらでもない勢力が現れた。インターミディエイターの登場は、2元論では支えきれない多元社会の必然である。だが、政治の世界に渦巻く狡猾さと厳しい勢力争いのなかで、中間領域から現れた新勢力は、右と左に引っ張られながら、まっすぐには歩けないだろう。しかしそれは、すでに行き詰まった政治=言語システムに新しい突破口を開くうえで不可欠な歩行である。未知の領域にふみこむ以上、有権者と、そしてその国の未来に思いをはせる人びとに届く、新たな言葉と物語が必要である。

reference: ジョシュ・ロウ+クレール・トゥレーユ「『右でも左でもない』苦悩」, Newsweek, 2017年4月25日号, p.36-37.

アクティブ・ラーニング

アクティブ・ラーニングという言葉は、残るはずのない一過性の言葉である。学ぶということは能動的になることである。だからそれは 〈白い白馬〉  同様リダンダント、すなわち重複表現である。

社会にはさまざまな考えがある。とりわけ時代の転換期には言葉が氾濫する。だが広く知られているからと言って、それが将来を支える言葉であるとは限らない。むしろ地球上の人類の課題は、この多様性と不信の時代にあって、立場の異なるものとのあいだで、なんとか共に学ぶ関係がなりたつこと、すなわちコ・ラーニング(Co-learning)がいかにして可能かを問うことである。異質なものとの相互作用が、新しいものを生み出す。そしてこれが堂々巡りを打ち破るのである。

社会が語る言葉をそれはそれとして一度受け止める。その上で、別の考え方があることを冷静に考えなおしてみる。考えるとは、考えなおすことであるのだから。

note: ” Co- “とは,「共同の」「共に」を意味する接頭辞:コ・ラーニングは、共同学習あるいは共に学ぶこと/なお「学習」とは、行動パターンが変わること。だからコ・ラーニングは変化の原理(共に変化していくための原理)である。

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