ここに「ボランティア行為の経済効果」について論じた記事がある。内容は、次の通りである。
ボランティアが社会にもたらす経済的影響は大きい。もし、現在のアメリカで行われている社会奉仕活動(隣人を車で病院に送る、ホームレスに食事を提供する、スラム街の子どもの勉強を見るなど)に対価を支払えば、約1750億ドル(約21兆円)になるといわれる。
ところが今、ボランティア大国ともいわれるアメリカで、ボランティアが減少している。人口に占めるボランティアの割合は、2003年の29%から、10年後の2013年には25.4%に減った。人数にすると、6260万人の減少だ。
かつてアレクシス・ド・トクヴィルは、アメリカを観察し、市民の自発的活動が盛んであることに着目したが、この数値を見る限り、ボランティア活動への参加者は、過去10年で最低のスコアを記録している。
行政も企業も積極的に関与しない(しにくい)課題を解決する上で、ボランティアは社会に欠かせないものだと言える。ただ、その活動の経済効果は、国の経済活動の規模を示すGDP(国内総生産)にほとんど反映されない。
こうしたなか、日本経済新聞においても、かつて「ボランティア活動の経済的効果は? 10兆円の試算も」と題した記事を掲載したことがあった。
これらの記事はボランティア活動を扱っている。しかし、ここではこれらを入口として、別の問題を扱う。
焦点は、ボランティアそのものでも、統計数値の増減でもなく、「市場価格では測れない価値」を社会がどのように認識するか、という点にある。
ボランティアの経済効果をあえて貨幣価値へ換算する記事が繰り返し現れることは、市場価格によって価値を可視化しようとする社会の傾向を示している。
「ボランティア」という名づけによって、その行為は市場価格の外側へ置かれる。
この結果、その行為は「無償であるべきもの」と判断され、その判断が反復される。
こうして、ひとは「名づけの結果として無償性を当然視している」とは思わず、ボランティアとは本来そういうものだと考える。ここに、名づけが判断を形成していること自体が見えにくくなる仕組みがある。
ここから導けることは、名づけと判断の関係を検討することによって、無償であることが当然視される構造を問い直すことができる、ということである。
この方法は、ボランティア行為に限定されない。
名づけによって市場価格の外側へ置かれ、その結果、無償性が当然視される構造は、家事、育児、地域活動、ケア、自然環境保護、文化活動、知識の共有など、多くの領域にも見いだすことができるだろう。
本稿の論点は、有償化の是非ではなく、名づけが価値認識と判断をどのように方向づけるかにある。