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Some postcards for a post-disciplinary approach —新しい「知と方法」へ—

狂人日記

投稿者: shidarapress

日本への留学経験のある陳独秀(1879-1942)が、はじめ独力で『新青年』を上海で創刊する。この『新青年』第4巻第5号(1918年5月)に発表されたのが、魯迅『狂人日記』である。魯迅というペンネームが使用されたのもこのときであった。また『新青年』に、翻訳以外の口語型創作小説が掲載されたのも、このときが最初だった。竹内好によれば「中国の古い社会制度、とくに家族制度と、その精神的支柱である儒教倫理の虚偽を暴露することを意図している点では、当時の新思潮と共通の認識に立っていた」とされる。

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Calamvs Gladio Fortior

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Calamvs Gladio Fortior(=The pen is mightier than the sword)という言葉は、魯迅のためにある。

魯迅が『狂人日記』を発表した。
1918年5月のことだった。

このとき初めて、
「魯迅」というペンネームを使用した。

ペン先に込めた思いは、
ただひとつである。

中国の古い社会制度を撃つ。
魯迅の狙いは、そこにあった。

そして、この問題意識は、
当時の新思潮と共通していた。

とくに「家族制度」、そして、その精神的支柱である「儒教倫理」の虚偽を、何としても明快に発(あば)かねばならない。

その強い決意が、この作品にみなぎっていた。
創作小説の体をとり、口語型にして、広く読まれる工夫もした。

魯迅躍動の背景には、陳独秀がいた。
『狂人日記』は、陳が独力で創刊した『新青年』に掲載された。

それまで掲載してきた翻訳小説では不十分だ。
魯迅は筆を執り、陳独秀がメディアを設える。

彼らは、新思想を物語にくるむと、それを自前の雑誌に載せ、
広く、情報を行き届けようとした。
 
いうならば、物語と雑誌、2重の情報メディアを使っての時代開拓作業である。こうして彼らは、他の心を寄せる仲間たちとも連帯して、重苦しい時代の暗雲を切り裂こうとしたのだった。

ところで、2011年に北京の魯迅博物館を訪れた。閉館時間を過ぎていたことに気づかなかった。このとき、職員の方が優しく声をかけてくださったのも、よい思い出である。

 

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