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Some postcards for a post-disciplinary approach —新しい「知と方法」へ—

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edible

by shidarapress

safe to eat.  毒性がなく、食に適した/食べることのできる。eatable(=まだ悪くなっていないので、食べられる)ではなく、edible。これからの生活を語るうえで不可欠な形容詞。

創業期のエスプリ

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当時あまりに画期的だった銀座の「テラス・コロンバン」。戦後の廃墟の中で、こうしたcaféを構える洒脱で文化力の高い革新型経営者がいた。門倉國輝である。リンク先にある仏文学者・渡辺一夫のエッセイには、顧客の観点からこの場所の記憶について綴られている。経営者なら必読。創業期のエスプリがいたるところで忘れ去られているように思う。

◉ 敗戦後、しばらくのあいだは、喫茶店が荒涼とした廃墟のなかで、魂のオアシスのような存在だった。一体、その日の食事にも事欠く東京に、コーヒーなどという贅沢なものが、どのようなルートで持ち運ばれたのだろうか。今でもわからない。しかし、なかには実に魅力的な構えを持つ店もあった。たとえば、交詢社ビルに近い銀座通りに面した「コロンバン」である。白く塗り立てた、フランス風の喫茶店が、焼けただれた銀座に復活したとき、私は思わず目を見張った。

私がいちばん惨めな気分になるのは、コーヒーを飲むだけの目的しかもたないような、あるいは商談だけが交わされているような、そんな店である。極論すれば、カフェハウスとはコーヒーを飲む場所ではない、とさえ言っていい。そう、コーヒーと引き換えに、精神的な、あるものを味わうところなのである。

シュテファン・ツヴァイクは回想する。「あらゆる新しいものに対する最良の教養の場は、つねにカフェであった。このことを理解するためには、ウィーンのカフェは、世界中の同種のものと比較できないような、格別の設備であることを知らなければならない。それは本来、一種の民主的な、一杯のコーヒーと引き換えに誰でもが近づけるクラブである。そこではどの客も、この少額の貨幣で何時間も坐り、議論をし、書きものをし、トランプに興じ、便りを受け取り、何よりも無数の新聞、雑誌を読み終えることができる。

フランスの場合、キャフェは、文学、芸術の孵化場になっただけでなく、革命の舞台裏の役割を果たすようになった。フランス革命を準備したのはキャフェだった、と言っていいほどである。イギリスではジャーナリズムの産みの親となり、フランスでは革命の拠点になり、オーストリアでは、文学、芸術の工房になったと言えるだろう。

reference to this page: 森本哲郎『ウィーン』1992, pp.51-2, 56, 58, 65-6より編集・作成. note: 門倉國輝(1893-1981)/シュテファン・ツヴァイク(Stefan Zweig, 1881-1942)/渡辺一夫(1901-1975)『寛容について』筑摩叢書, 1972/銀座6丁目「テラス・コロンバン」1931年開業/

「新しい時刻表」の執筆

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ダニロ・キシュ(1935-89)『庭、灰』(1965)に登場する主人公の父親は鉄道監査官である。つまり実務の場における知的エリートであった。確たる世界観をもったシステム思考の人であり、それが彼を「新しい時刻表」の執筆という生涯をかけた事業に向かわせる。

彼がひそかに書き続ける『バス・汽船・鉄道・飛行機交通時刻表』の新版というのは、じつは新版や改訂版の域を大幅に超えて、まったく新しい書物、交通という概念を入口として無限に広がる一種の百科事典ないし世界図の様相を帯びてゆく。それが永遠に完成しないことは読者にはわかる。参照すべき諸学として、ここには200を超える分野が羅列されている。永遠と無限。これこそまさにユダヤ的知性を示す資質であろう。(池澤夏樹, 世界文学全集Ⅱ-06, 2009)

読み継がれる禁書

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『すばらしい新世界』(1932)が発表されたときの評価は批判的なものが多く、批判的どころか、公立図書館では禁書にされ、一時、オーストラリア政府にも禁書扱いされたほどだった。昭和7年に発表された物語だが、その先進性が称えられることが多く、ディストピア小説の代表格とされる。ただし、この「新世界」の教育観を支えているのは、I.P.パヴロフとJ.B.ワトスン(行動主義心理学の主唱者)だ。第3カーブ・パラダイムでは、そもそも一方向で教え込む「教育」というコンセプトの有効性を問いなおし、むしろ教育から学習への転換、それもCo-learning(ともに学ぶ共同学習)を重視する。

狂人日記

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日本への留学経験のある陳独秀(1879-1942)が、はじめ独力で『新青年』を上海で創刊する。この『新青年』第4巻第5号(1918年5月)に発表されたのが、魯迅『狂人日記』である。魯迅というペンネームが使用されたのもこのときであった。また『新青年』に、翻訳以外の口語型創作小説が掲載されたのも、このときが最初だった。竹内好によれば「中国の古い社会制度、とくに家族制度と、その精神的支柱である儒教倫理の虚偽を暴露することを意図している点では、当時の新思潮と共通の認識に立っていた」とされる。

魯迅の書き出し

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私が阿Qの正伝を書こうと思いたってから、もう1年や2年ではない。しかし書きたい一面、尻込みもする。どうやら私など「言論で後世に不朽の名を残す」柄ではないらしい。というのは、昔から不朽の筆は不朽の人の伝記を書くもの、と相場が決まっている。こうして人は文によって伝わり、文は人によって伝わる——となると一体、誰が誰によって伝わるのか、だんだんわからなくなる。それでも結局、阿Qの伝記を書くわけだから、なにか物の怪にでも憑かれているのかもしれない。さて、この不朽ならぬ速朽の文を書くと決めて、いざ筆をとると、たちまち難関にぶつかった・・・

『阿Q正伝』は、こんな書き出しになっている。『阿Q正伝』であるから結局は「正伝」の語に落ちつくのだが、このあと、列伝か自伝か、内伝か外伝か、あるいは別伝、家伝、小伝かで迷うな、どれもぴったりじゃないんだ、ああ残念という話が続く。

阿Q正伝

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魯迅が中国社会の救いがたい病根と感じたもの、それは儒教を媒介とする封建社会であった。阿Qは、その病根をつくり、またその中で死んでゆく人間である。こうしたやりきれない暗さの自覚から中国の新しい歩みは始まった。

『阿Q正伝』は、無知蒙昧な愚民の典型を架空の中国国民として描き出し、当時の中国社会の病理を鋭く告発した作品として評価された。おそらくこれ以下はないであろう最下層の人間を主人公にして、彼を縦横無尽に活躍させることによって、農村社会(ひいては社会全体)のさまざまな人間タイプの思考や行動の様式を浮き彫りにした。特にこの作品を気に入った毛沢東が談話でしばしば引き合いに出し、魯迅の名を大いに高めた。後に中国の高校教科書に採用されたため、中国国民に広く知られる話となっている。国外でも数ヶ国語に翻訳され出版されている。本作は一週一回の新聞連載がもとになっている。

言葉を削れない男

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『失われしもの』は、ひとりの作家の若き日の肖像であり、その本のとほうもない長さが取りざたされた。原稿を見た人に言わせると、床から数フィートの高さになるということだった。実際には、薄いオニオンスキン紙で1114枚で、語数にして33万語、厚さ5インチだった。ウルフ自身も認めていたが、これほど大部の本ではまず読み通せないし、扱いにくいに決まっていた。そこで、ウルフはひとつの方針を立てて縮小することにし、日記にこう書き記している。「第一に、すべてのページから、作品の意図に照らして重要だと思えない言葉を削ること。各ページから10語削除しただけでも1万語を減らすことができる」。そして、1月中旬からこの仕事にとりかかっていた。

ウルフは、友人宛の手紙にこう書いている。「作品の採用が決まったとき、せいぜい斧をふるって10万語ほど削るようにと出版社から釘を刺された」。パーキンズからもおおまかに指示されたのは、主人公にぴったりと焦点を合わせ、ひとりだけ際立つように削除の手を加えればいいだろうということだった。ウルフは長い時間をかけて『失われしもの』に手を入れ、その出来栄えに満足して、数週間後にはまたスクリブナー社に出かけた。パーキンズは、作品の詩情をすばらしいと思う気持ちこそ変わらなかったが、納得しなかった。ウルフの努力にもかかわらず、原稿はたった8枚分しか短くなっていなかったパーキンズに示唆された部分をほとんど削除したのはいいが、その前後をつなぐため、新たに書き足した言葉が数千語に膨れあがってしまったのである。287-88

しぶしぶ『グレート・ギャツビー』

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成果は共につくられるものだが、その際しぶしぶが好結果を生むこともある。

◉ 出版の期日が迫るにつれ、フィッツジェラルドは落ちついていられなかった。とりわけ、題名に確信がもてなかったのである。3月初めには編集者に電報を打って、書名を『金の帽子のギャツビー』に変えたいのだが、遅すぎるだろうかと聞いてきた。編集者からの返事はこうだった。そのような変更をすればいたずらに出版を遅らせるばかりか、大きな混乱を招くだろう。そこでフィッツジェラルドは『グレート・ギャツビー』という題をしぶしぶ認めることにしたが、心のなかでは、これがいつまでも作品の傷として残るだろうと考えていた。

その小説が今日、英語で書かれた20世紀最高の小説に数えられている。

1 1922 Ulysses James Joyce
2 1925 The Great Gatsby F. Scott Fitzgerald
3 1916 A Portrait of the Artist as a Young Man James Joyce
4 1955 Lolita Vladimir Nabokov
5 1932 Brave New World Aldous Huxley
6 1929 The Sound and the Fury William Faulkner
7 1961 Catch-22 Joseph Heller
8 1940 Darkness at Noon Arthur Koestler
9 1913 Sons and Lovers D. H. Lawrence
10 1939 The Grapes of Wrath John Steinbeck

reference to this page: Modern Library 100 Best Novels. note: フィッツジェラルド(Francis Scott Fitzgerald, 1896-1940)。仕事をする意欲がなくなると決まって南のヴァージニアに向かった/グレート・ギャツビー(The Great Gatsby, 1925 )ニューヨークの証券会社に勤務する主人公ニックは、ギャツビーの世界を乗りこえて自分の物語を歩み始める。物語構成は、Ⅰ. ジェイ・ギャツビーとの出会い、Ⅱ.デイズィを愛し続けるギャツビー、Ⅲ.マートルの死、Ⅳ.ギャツビーの死。 ぼくがまだ若く、いまよりももっと傷つきやすい心をもっていたときに、父がある忠告を与えてくれた・・から始まる/マックス・パーキンズ( Maxwell Evarts “Max” Perkins, 1884-1947 )フィッツジェラルドの担当編集者。チャールズ・スクリブナーズ・サンズ所属。

『楽園のこちら側』

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フィッツジェラルドは一章も送ってこなかったが、1919年9月の第一週に、完成した決定稿がパーキンズの机の上に届けられた。フィッツジェラルドは、原稿をかなり書き変え、パーキンズの提案をことごとく取り入れていた。語り口を三人称に変え、もとの作品から集めた素材をずっとうまく使いこなしていた。そして、作品の題名も新しくなっていた。『楽園のこちら側』と。

彼はマックスウェル・パーキンズから速達の手紙を受け取った。「このことをお伝えするのは、わたし個人としてもまことに喜ばしい次第ですが、わが社の意向として、あなたの作品『楽園のこちら側』を出版することが決まりました。前にお送りいただいた作品を尺度として考えますと、表現がいくらか変わり、全体として長くなってはいますが、非常によくなっていると思います。第1稿もそうでしたが、このたびも活力と生気に満ちあふれており、わたしのみるところ、はるかに均衡が取れているように思われます・・・。なにぶん異色な作品ですので、どれほど売れるか予測しにくいのですが、全社をあげてこの出版に賭け、精一杯努力する所存です」35-37