1911年5月26日。アンリ・ベルクソンがオックスフォード大学で講演を実施。残された記録に目を通す。
「芸術の役割は、われわれの感覚と意識に明確には捉えられないものを示すことにほかなりません。ずっと以前から私たちの内部では表象できるはずのものでありながら、見えないままになっていた感情と思考のニュアンス。それは、現像液につけて現像するまでは見えてこない写真フィルムのイメージのようなものです。詩人とはこの現像液のことです。そして偉大な画家とは、すべてのひとの視覚像になるか、視覚像の起源であるような人のことです」
かつて大阪、京都、徳島に慶應義塾があった。まず1873年(明治6年)11月、大阪慶應義塾ができた。翌年1874年(明治7年)2月、京都慶應義塾が開設された。京都の塾生数はわかっていない。大阪の場合『入社帳』が残っていてそこには86名の塾生が記録されている。
明治維新の激震が徐々に鎮まりをみせると、明治政府が文明開化の方針を掲げた効果で次第々々に洋学への世間的関心が高まってきた。そうした背景のなか福沢諭吉は東京に塾生を募るだけでなく、自ら地方に出て行って新しいタイプの人材を育成しようと考えた。こうして計画・実現したのが大阪と京都の慶應義塾だった。ところが大阪慶應義塾はだいたい1年半で、京都慶應義塾については1年ほどで撤退している。失敗したと言っていい。
大阪慶應義塾の主唱者・荘田平五郎はこんな抱負を語っていた。「文学と商業を切り離してはならない」(文学を商業ニ結付候)。ところが大阪文化圏では、商売に学問は不要という気風が根強かった。文学と商業の結合という荘田のコンセプトは容易には浸透しなかった。京都慶應義塾の場合、府立の学校がすでにあって義塾はその一部を間借りしていた。府立校ではネイティヴが発話中心の授業をし、その一部を借りている義塾は英書読解を中心とする学習スタイルだった。
不振だった大阪慶應義塾に対し、徳島に来ませんかという声がかかった。徳島慶應義塾ができた。その徳島分校も49名の塾生を生み出しながら、1876年(明治9年)11月に幕を閉じる。49名のうち40名は大阪転校組だったから徳島組は9名だった。福沢の構想した関西分校プランはどれも失敗。福沢思想と文明開化のエスプリはむしろ各地に発達した各種学校への派遣教員によって共有されていった。
『ポスト資本主義社会』には、今後、学校に訪れる大きな変化が説かれている。その要点を「第3カーブ」の観点から翻案すれば、次のようになる:
学校の役割は、もはや学校が独占するものではない。企業、行政、NPOなど、あらゆる組織が、学び続けるための場となる。学校は、これらの機関と連携することになる。激動する社会、転換期の社会では、「学習(learning)」の機会と場は、社会全体に広がらなければならない。
・Drucker, Peter F. (1994 *) Post-Capitalist Society, HarperBusiness, p.198. (paperback ed.)より編集・作成
◉環連リンク 新しい学習観│慶應義塾 ーはじまりの原理ー
* Post-Capitalist Society の出版は1993年。Paperback ed.が1994年。
ジョナサン・ケイプ(Jonathan Cape, 1879~1960)についての文章に目を通す。イギリスの出版人である彼が、あるときシルヴィア・ビーチに、こう質問した。「どういったアメリカ人の作品を発行するのがいいか」。そこでシルヴィアは答える。「ヘミングウェイを、お読みなさい」。こうしてヘミングウェイ作品は、ケイプ氏を介してイギリスで出版されることとなる。
フランス人で、ヘミングウェイの最初の愛読者が、アドリエンヌ・モニエ(Adrienne Monnier, 1892~1955)だった。彼女こそは、フランス語で、彼の短編集を出版した最初の人物として知られている。短編『不敗の人々』( The Undefeated )を、彼女は自分の雑誌「ル・ナヴィール・ダルジャン」に掲載する。
この話は、シルヴィア・ビーチ著(中山末喜 訳)『シェイクスピア・アンド・カンパニイ書店』、第9章「私の最良のお客様」に登場する。
慶応4年(1968年)4月10日、福沢諭吉は、つぎのような書簡を山口良蔵に送っている。
「ぼくは学校の先生ではないし、生徒はぼくの門人でもありません。こうした関係を一社中と名づけよう。ぼくは社頭の職をまっとうしたいと思う」
ここには、共同体型でも、官僚制でもない、自発結社型の新しい原理によって、福沢が義塾を起こそうとしていたことが示されている。
なお、この翌日4月11日が江戸城無血開城で、徳川慶喜が江戸を去り、水戸に向かう。そして、この手紙が送られた5ヶ月後の9月8日、時代は明治と呼ばれるようになる。