物語表現の可能性
by shidarapress
物語は、人間のあらゆる生活を表現する。
He says, “The translation doesn’t sound good. It seems insipid, dull, incapable of expressing my new thought.”
彼がこう言う。「翻訳がうまく響かないんです。味気なく退屈で、自分の新しい考えが表現できていないように思うんです」
Story-telling is the effective way of absorbing and organizing complexity. Otherwise it would terrify people, it would upset people too much.
物語を語ることは、複雑さをやわらげ、複雑さにまとまりを生みだす有効な方法なのだ。物語がなければ、人々はうろたえ、ひどくかき乱されるだろう。
A new word carries me from one place to another. It’s an innovative, enchanting path. A creative rhythm.
ひとつの新しい言葉が、ある場所から他の場所に、わたしを連れて行く。それは型破りで、魅力的な通路だ。新しいリズムだ。
You needed a different language: a new language that was a place of innovation and narration.
あなたには違う言語が必要だった。革新と物語の場である新しい言語が。
1953年に『ロシア的人間』を書くまで井筒俊彦は、自分のことをphilosopherだとは思っていなかったように思われます。井筒にとっての“ philosopher ”は、古代ギリシアの哲人たちがそうであったように超越界と現実界を架橋する存在です。しかし、超越とのつながりを遮断し、詩に耳を傾けることのない哲学研究者ばかりの状況では、井筒が自分をphilosopherだと認識していなくてもまったく不思議ではありません。
「誤解を恐れずにいうなら、哲学者は詩人たり得るか、という問題であった」と、小林秀雄はアンリ・ベルクソンについて論じています。それはベルクソンのみならず、20世紀のphilosophy全体に関わる問題です。現代の多くのphilosophyは「詩情」を欠いている。だから意識を刺激することはあっても魂に響かない。philosophyに詩情をよみがえらせること、それが井筒の大きな試みでもありました。
井筒にとってphilosophyとは、論理の形式ではなく、叡知を生きることを意味していました。古代ギリシアでそれをもっとも切実な形で表現したのは詩人たちだった、と言うのです。むしろ詩人たちによってphilosophyの道が開かれたことにきわめて重要な意味を見いだしている。こうした見方は、井筒が西脇順三郎から学んだことでした。
若松英輔(「コトバ」第20号(2015), p.78をもとに編集)
毎日新聞が、ロシア正教会総主教とローマ法王の歴史的会談を報じている(2016年2月5日)。1054年に「正統性を巡って東西に分裂したキリスト教の両教会は、1000年近くの対立を乗り越え、和解を進めることになる」。会談場所は2月12日キューバの首都ハバナの空港。「東方正教会で最大のロシア正教会と、カトリック教会のトップが対面するのは初めて。ロシア正教会とローマ法王庁は5日に声明を出し『長い準備をかけた会談は歴史上初となり、双方の関係が重要な段階に至ったことを示すだろう。全ての人にとって希望の兆しとなることを願う』と表明」。両教会は長い時を経て、新たな展開へと向かう。
いままでずいぶんいろいろなことをやってきた。私が学問の方向を変えるたびに、ひとは私の仕事にレッテルを貼り付けようとしてきたものだ。だが他人から付けられたレッテルで満足したためしがなかった。
ところが今度エラノス学会から講演に招かれた際、主催者から「あなたの専門は哲学的意味論(Philosophical Semantics)でよろしいか」と尋ねてきた。はじめちょっとびっくりした。まったく予想もしていなかったレッテルだった。しかし、このレッテルにどのような意味があるのか、ありうるのか、と考えているうちに、こちらの意味づけの仕方いかんによっては、じつにぴったりした名称だという気がしてきた。面白いものである。
「哲学的意味論」――それは私が最近胸にいだいてきたイデーを、他のどんな名称にもまして、よく表現しているように思われた。
reference to this page: 井筒俊彦,「哲学的意味論」より編集・作成. note: 井筒俊彦(1914-1993)