1840年のドストエフスキー
by shidarapress
ドストエフスキーは、兄ミハイルに、元旦からつっかかっている。
「コルネーユはほとんどシェイクスピアに匹敵するってことを、あなたは知らないんですか?あなたは『ル・シード』を読んだんですか?兄さん、あなたはかわいそうなお人だ。さあ、読んでご覧なさい。読んでコルネーユの前にひれ伏すがいいのです。読んでご覧なさい。コルネーユを読むんです」
(1840年1月1日、兄ミハイル宛の手紙)
ドストエフスキーは、兄ミハイルに、元旦からつっかかっている。
「コルネーユはほとんどシェイクスピアに匹敵するってことを、あなたは知らないんですか?あなたは『ル・シード』を読んだんですか?兄さん、あなたはかわいそうなお人だ。さあ、読んでご覧なさい。読んでコルネーユの前にひれ伏すがいいのです。読んでご覧なさい。コルネーユを読むんです」
(1840年1月1日、兄ミハイル宛の手紙)
1839年8月9日、ドストエフスキーは、兄ミハイル宛の手紙にこう綴っている。
「あなたは、たくさん本を読んだといって自慢していますよね。しかし、ぼくがそれを羨んでいるなどと思わないでください。ぼくもペテルゴーフで、少なくとも兄さんに劣らぬくらい本を読みましたから。ホフマンは全部読みました、ロシア語とドイツ語で、それからバルザックをほとんど全部…。それからゲーテの『ファウスト』と、そのいくつかの短い詩もね、そしてポレヴォイの『歴史』『ウゴリノ』『ウンディーネ』……それから、『クロムウェル』と『エルナニ』を除くヴィクトル・ユゴーも…」
兄に対する純粋なまでの対抗心を自己研鑽のバネにしながら、ドストエフスキーは何かと制約のある環境下で、できるだけページを繰っていった。こうして彼のなかに少しずつ「物語の鋳型」がアーカイブされていく。
『ドストエフスキー写真と記録』には、ドストエフスキーをめぐる写真や絵画や手紙が収録されている。偉人として崇められがちだが、ここにはドストエフスキー自身による人間味あふれる言葉でみちあふれている。
ところで、このなかにはトルストイによる次のようなドストエフスキー評も収められている。「ドストエフスキーが無造作に書いた一行は、今どきの作家たちが書く本の何巻ぶんにも値する。私は『復活』を書くために、最近『死の家の記録』を読んだ。これは、なんとも驚くべき作品だ!」
これはトルストイの言葉として、P.セルゲエンコが書き留めたものだ。トルストイは、ドストエフスキーと同時代を生きたが、2人は直接対面することはなかった。
まだ慶應義塾と改称する前の1863年から、その後1882年にかけて、慶應義塾で学んだ者の総数は3967名にのぼる。出身地別に見ると、もっとも多いのが武蔵国で551名。次いで多かったのが和歌山の178名だった。この178名のなかには、のちに慶應義塾の塾長になる小泉信吉もふくまれる。当時、和歌山藩は、中津、長岡とならんで「塾の三藩」と呼ばれた。
慶應義塾と和歌山藩とのラディカル・コネクティビティを用意したのは山口良蔵だった。山口と福沢は適塾で出会い、以後も親しい友人関係にあった。その山口が和歌山藩に雇われた。当時かれらは藩政改革をすすめ、新しいタイプの人材育成に力を入れていた。こうしたなか、山口の働きかけによって、多数の和歌山出身者が慶應義塾に学ぶことになる。
開明派の儒者であった田中善蔵は、山口と協議して福沢を和歌山に招こうとした。だが結局、招聘は実現しなかった。それでも、和歌山と福沢とのあいだに関わりがあったことが知られている。前出の山口良蔵と田中善蔵が媒介したのだろうが、藩主であった徳川茂承にかわって「義田結社」の設立趣意書を執筆したのは、福沢であった。
1858年、福沢諭吉が蘭学の塾として開設。1868年に慶應義塾と改称し、1920年に慶應義塾大学となった。
福沢が江戸に蘭学塾を開いたのは藩命によるもので、奥平家の中屋敷をその場所とした。初期の福沢塾を構成したのは、福沢が17年半にわたって暮らした中津藩出身者たちであった。和田慎次郎(のちの福沢英之助)、和田克太郎、小幡弥が最古参。
1864年の中津帰省時には、英学と塾の発展を担う若者を求め、小幡篤次郎、小幡甚三郎、浜野定四郎、服部浅之助、三輪光五郎、小幡貞次郎の6人をつれて江戸に戻っている。また藩の重役である島津祐太朗の子・島津万次郎や、旧藩主にあたる奥平昌邁も、福沢のすすめで慶應義塾に入塾している。
なお、明治元年の1868年あたりは中津でも攘夷論者が活動しており、福沢は朝吹英二や増田栄太郎らの暗殺ターゲットとなっていた。しかし朝吹と増田さえ、その後、福沢の考え方を受け入れて慶應義塾に入塾している。
また福沢は、中津から人材を見いだす一方、中津の地でも人びとが英学を学び、新しい社会の担い手となってゆくことに大きな関心を払っていた。
1871年の帰省時には、藩の重役に対し、英学を学ぶことのできる学校の開設を勧めている。この働きかけが、翌1872年、中津市学校の創設として具体化される。旧藩主の名で発表された市学校の設立趣意書は、もとはといえば福沢による立案だった。1873年、旧藩主である奥平一家の東京転居に同伴するため中津に帰省した際、この市学校にも足を運び視察している。
咸臨丸は日本名で、オランダ名はヤーパン(日本号)という名前がついていた。艦長は、オランダでもっとも優秀な士官カッテンディーケ(1816~66)。彼は海軍技術の教授でもあって、やがてオランダの海軍大臣もつとめることになる。視野の広い人物だったと言われている。勝海舟は、このカッテンディーケに、洋式海軍を結成するための幅広い教えを乞うことになる。その意味で、咸臨丸とともに来日したカッテンディーケ一行は、近代日本が成立する上で、触媒もしくは教師の役割を担っていた。
「読書院」をはじめるので、有志を募り、関係者の参加をうながす1通の手紙がある。福沢諭吉から肥田昭作に充てられたものだ。いつ書かれたのかについては明治8年説と10年説があるが、ともあれこの書簡以外に資料がなく、「読書院」構想が実現したかは、はっきりしないらしい。
「おい、一緒に読もう」と福沢に声をかけられたのは、肥田昭作と阿部泰蔵と荘田平五郎をはじめとするメンバーだった。肥田はこの3ヶ月前に東京外国語学校の校長を辞めている。阿部はこの1ヶ月前に文部省を辞任しており、荘田は三菱商会で翻訳係をしていた。福沢はこの手紙の中で「いまからニューライフと思って、しっかり学びなさいな」といっている。