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Some postcards for a post-disciplinary approach —新しい「知と方法」へ—

タグ: 福沢諭吉

タイミング

by shidarapress

時節の悪いときに、どんな書き手、どんな学者が何を書いたって、何を翻訳したって、私の出版物のように売れるわけがない。結局、私の才覚がスグレているというより、時代がエラかったのです。233

著書・翻訳事業

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私の生涯で一番骨を折ったのは著書・翻訳の事業で、これについては話すとなかなか長くなる。306

Παθηματα, Μαθηματα

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洋学者として英語を知らなければ、とうてい何事にも精通することはできない。これからは英語を読むよりしょうがない、そう思い、横浜から帰った翌日、一度は落胆したが同時にまた心を新たにし、それからは一切英語と覚悟を決めた。100

古風な人が気に入るはずがない

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元来私の著訳は、私ひとりの発意で、他人の指図も受けなければ他人に相談もせず、自分の思うとおりに執筆して、ときの漢学者はもちろん、朋友である洋学者に草稿を見せたこともなければ、ましてや序文・題字など頼んだこともない。これもあまりに殺風景なもので、だったら当時の古老先生とかいう人に序文でも書かせたほうがよかったかもしれないが、私はそれがキライだ。私の著訳書は、古風な人が気に入るはずがない。『福翁自伝』p.208

福沢諭吉と京都(2)

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福沢諭吉が、門下生の早矢仕有的とともに京都入りする。三条御幸町の松屋に泊まった。明治5年5月1日、京都府下の学校を視察。6日『京都学校の記』を起草、10日には大阪へ。10日間の京都滞在中、槙村正直が、福沢をたずねに松屋にやってきた。

『福沢諭吉伝』に、こう記されている。

「宿屋の松屋では、先生が泊まられたときの身なりが粗末なのを見て、田舎の客と思い、ろくに待遇もしなかったところ、槙村知事が尋ねてきたのではじめて先生たることを知り、大いに恐縮して、にわかに座敷をかえるなど大騒ぎをした」

 

多田建次『京都集書院』玉川大学出版部, 1998より編集・作成

福沢諭吉と京都(1)

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日本初の公共図書館設立までのプロセスを追うと、福沢諭吉の積極的な関与が明らかになる。福沢は10日間の京都滞在のうちに、京都府の槙村正直にたいして、社会教育の振興をうながした。それ以前にも、民間での図書館新設の動きがあったのだが、福沢はここにも関与している。大黒屋太郎左衛門(京都書籍会社)と村上勘兵衛(御用書林)らによる書集会社の創業の際に、「書集会社基本」という設立趣意書と規則書を書き与えている。

この自説について、著者は次のような断りをしている。

「私があえて大胆に『書集会社基本』福沢執筆説をとなえたことにたいして、所詮状況証拠をならべたにすぎず、決定的な根拠に欠けるとの批判があることは、十分承知している。(中略)大黒屋・村上両名が、福沢にことわることなく、彼の著作を換骨奪胎し、その文体をたくみにまねて、『書集会社基本』をまとめ上げただけのことなのかもしれない」(p.201)

 

多田建次『京都集書院』玉川大学出版部, 1998より編集・作成

福沢諭吉と関西分校構想

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かつて大阪、京都、徳島に慶應義塾があった。まず1873年(明治6年)11月、大阪慶應義塾ができた。翌年1874年(明治7年)2月、京都慶應義塾が開設された。京都の塾生数はわかっていない。大阪の場合『入社帳』が残っていてそこには86名の塾生が記録されている。

明治維新の激震が徐々に鎮まりをみせると、明治政府が文明開化の方針を掲げた効果で次第々々に洋学への世間的関心が高まってきた。そうした背景のなか福沢諭吉は東京に塾生を募るだけでなく、自ら地方に出て行って新しいタイプの人材を育成しようと考えた。こうして計画・実現したのが大阪と京都の慶應義塾だった。ところが大阪慶應義塾はだいたい1年半で、京都慶應義塾については1年ほどで撤退している。失敗したと言っていい。

大阪慶應義塾の主唱者・荘田平五郎はこんな抱負を語っていた。「文学と商業を切り離してはならない」(文学を商業ニ結付候)。ところが大阪文化圏では、商売に学問は不要という気風が根強かった。文学と商業の結合という荘田のコンセプトは容易には浸透しなかった。京都慶應義塾の場合、府立の学校がすでにあって義塾はその一部を間借りしていた。府立校ではネイティヴが発話中心の授業をし、その一部を借りている義塾は英書読解を中心とする学習スタイルだった。

不振だった大阪慶應義塾に対し、徳島に来ませんかという声がかかった。徳島慶應義塾ができた。その徳島分校も49名の塾生を生み出しながら、1876年(明治9年)11月に幕を閉じる。49名のうち40名は大阪転校組だったから徳島組は9名だった。福沢の構想した関西分校プランはどれも失敗。福沢思想と文明開化のエスプリはむしろ各地に発達した各種学校への派遣教員によって共有されていった。

設樂剛事務所

 

慶應義塾 〜はじまりの原理〜

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慶応4年(1968年)4月10日、福沢諭吉は、つぎのような書簡を山口良蔵に送っている。

「ぼくは学校の先生ではないし、生徒はぼくの門人でもありません。こうした関係を一社中と名づけよう。ぼくは社頭の職をまっとうしたいと思う」

ここには、共同体型でも、官僚制でもない、自発結社型の新しい原理によって、福沢が義塾を起こそうとしていたことが示されている。

なお、この翌日4月11日が江戸城無血開城で、徳川慶喜が江戸を去り、水戸に向かう。そして、この手紙が送られた5ヶ月後の9月8日、時代は明治と呼ばれるようになる。

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和歌山リンケージ

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まだ慶應義塾と改称する前の1863年から、その後1882年にかけて、慶應義塾で学んだ者の総数は3967名にのぼる。出身地別に見ると、もっとも多いのが武蔵国で551名。次いで多かったのが和歌山の178名だった。この178名のなかには、のちに慶應義塾の塾長になる小泉信吉もふくまれる。当時、和歌山藩は、中津、長岡とならんで「塾の三藩」と呼ばれた。

慶應義塾と和歌山藩とのラディカル・コネクティビティを用意したのは山口良蔵だった。山口と福沢は適塾で出会い、以後も親しい友人関係にあった。その山口が和歌山藩に雇われた。当時かれらは藩政改革をすすめ、新しいタイプの人材育成に力を入れていた。こうしたなか、山口の働きかけによって、多数の和歌山出身者が慶應義塾に学ぶことになる。

開明派の儒者であった田中善蔵は、山口と協議して福沢を和歌山に招こうとした。だが結局、招聘は実現しなかった。それでも、和歌山と福沢とのあいだに関わりがあったことが知られている。前出の山口良蔵と田中善蔵が媒介したのだろうが、藩主であった徳川茂承にかわって「義田結社」の設立趣意書を執筆したのは、福沢であった。

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慶應義塾の初期メンバー

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1858年、福沢諭吉が蘭学の塾として開設。1868年に慶應義塾と改称し、1920年に慶應義塾大学となった。

福沢が江戸に蘭学塾を開いたのは藩命によるもので、奥平家の中屋敷をその場所とした。初期の福沢塾を構成したのは、福沢が17年半にわたって暮らした中津藩出身者たちであった。和田慎次郎(のちの福沢英之助)、和田克太郎、小幡弥が最古参。

1864年の中津帰省時には、英学と塾の発展を担う若者を求め、小幡篤次郎、小幡甚三郎、浜野定四郎、服部浅之助、三輪光五郎、小幡貞次郎の6人をつれて江戸に戻っている。また藩の重役である島津祐太朗の子・島津万次郎や、旧藩主にあたる奥平昌邁も、福沢のすすめで慶應義塾に入塾している。

なお、明治元年の1868年あたりは中津でも攘夷論者が活動しており、福沢は朝吹英二や増田栄太郎らの暗殺ターゲットとなっていた。しかし朝吹と増田さえ、その後、福沢の考え方を受け入れて慶應義塾に入塾している。

また福沢は、中津から人材を見いだす一方、中津の地でも人びとが英学を学び、新しい社会の担い手となってゆくことに大きな関心を払っていた。

1871年の帰省時には、藩の重役に対し、英学を学ぶことのできる学校の開設を勧めている。この働きかけが、翌1872年、中津市学校の創設として具体化される。旧藩主の名で発表された市学校の設立趣意書は、もとはといえば福沢による立案だった。1873年、旧藩主である奥平一家の東京転居に同伴するため中津に帰省した際、この市学校にも足を運び視察している。

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