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Some postcards for a post-disciplinary approach —新しい「知と方法」へ—

タグ: 福沢諭吉

「読書院」構想

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「読書院」をはじめるので、有志を募り、関係者の参加をうながす1通の手紙がある。福沢諭吉から肥田昭作に充てられたものだ。いつ書かれたのかについては明治8年説と10年説があるが、ともあれこの書簡以外に資料がなく、「読書院」構想が実現したかは、はっきりしないらしい。

「おい、一緒に読もう」と福沢に声をかけられたのは、肥田昭作と阿部泰蔵と荘田平五郎をはじめとするメンバーだった。肥田はこの3ヶ月前に東京外国語学校の校長を辞めている。阿部はこの1ヶ月前に文部省を辞任しており、荘田は三菱商会で翻訳係をしていた。福沢はこの手紙の中で「いまからニューライフと思って、しっかり学びなさいな」といっている。

設樂剛事務所

早矢仕 有的

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早矢仕 有的(はやし ゆうてき) は、福沢諭吉の考える「実践の知」を率先して体現する存在だった。早矢仕は「丸善」の創業者で、明治元年、横浜新浜町に「丸屋」という名の書店を開業する。丸屋と命名するにあたっては、2歳半年上の福沢などにも相談をした。

翌明治2年には、書物や医薬品などを扱う「丸屋商社」として正式にスタート。このさい『 丸屋商社之記 』という設立趣意書を発表している。丸善自身によれば、これは「日本初の設立趣意書」だと謳っている。いったい誰が趣意書を書いたのかについては諸説あって、『福澤諭吉全集』では、執筆者は福沢だとされている。その一方『丸善百年史』では、(1)早矢仕の考えを熟知した沢井秀造説、(2)早矢仕が起草したものに福沢が手を入れたとする説、(3)沢井が起草したものに福沢が手を入れたとする説があるが、結局は確定できていない。

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慶應義塾の解散提案

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慶應義塾維持の資金あつめに失敗すると、福沢は、当時の慶應義塾 塾長だった浜野定四郎に手紙を書く。こう綴られていた。「開塾以来、20年あまりがすぎた」「一生涯の仕事としても沢山」。義塾の運営に見切りをつけたのだ。そして慶應義塾の解散さえ提案した。明治13年10月のことだった。

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明治生命のはじまり

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阿部泰蔵と物集女清久が中心となって準備が進められ、明治14年7月、「明治生命保険会社」の設立総会が開かれる。ことの発端は、この1年半ほど前にさかのぼる。明治12年の年末のことだ。これは「交詢社」がスタートする、ひと月ほど前にあたる。

福沢諭吉のもとに集まった木幡篤次郎、小泉信吉、荘田平五郎らのあいだで、ひとつの観念が話題になっていた。「生命保険」である。このコンセプトがまもなく膨らんで、明治生命の誕生へとつながっていく。

発起人には、創業者の阿部泰蔵のほか、木幡篤次郎、早矢仕有的、荘田平五郎をはじめ、早矢仕の盟友である中村道太、中津藩の初代知事で、家臣だった福沢諭吉にアメリカ留学を勧められた奥平昌邁、国立大十五銀行や百十九銀行などの頭取を歴任した肥田昭作、三有鉱業で社長職にあった杉本正徳らの名前が並んでいる。

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『 交詢雑誌 』45号

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『福澤諭吉書簡集』によれば、「交詢社」発会式当日の社員数は1767人。職業別に見ると官吏が371名にのぼり、これとほぼ同数にあたるのが学者たちで365名あまり。ここで学者とは、教員、教導職、医師、新聞記者が含まれた。このほかにも商工業者、農地主、華族などが参加し、じつに多様なメンバー構成だった。

交詢社は、東京本社以外にも各地方に支店を設けたほか、『交詢雑誌』の編集と発行をおこなった。しばしば特筆されてきたのは『交詢雑誌』45号で、この号では、当時の自由民権運動の高まりを背景に「私擬憲法案」を掲載している。「議院内閣制」「二院制」「君民共治」「財産制限選挙」などのコンセプトを交詢社案として提案すると、各地の新聞にも転載(シェア)され、当時の政治情勢に多くの影響を与えていく。しかし「 明治14年の政変 」が起こると、官吏などの脱会者が相次いだようで、その後は次第に「純然たる社交クラブ」へと変容していくことになる。

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交詢社の5人組

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明治13年1月25日、芝の青松寺。「 交詢社 」は、この場所で発会式を行った。主唱したのは福沢諭吉。設立準備は、以下の5名を中心に進められる。

(1)小泉信吉。このあと横浜正金銀行の副頭取や、明治20年には慶應義塾総長(のち塾長)に就任する。(2)福沢が「気品高尚」「文思緻密」と褒め称えた馬場辰猪。(3)阿部泰蔵。「丸善」創業者の早矢仕有的(はやし ゆうてき)らと英学を学び、やがて慶應義塾で「インテレクチュアル・ヒロソヒイ」を担当する。また、交詢社発会式から1年半後に「明治生命」創立者となる。(4)矢野文雄。大阪慶應義塾や徳島慶應義塾で教鞭を執ったほか、郵便報知新聞の社長をつとめる。立憲改進党の設立にも関与した。その一方で、のちに政治小説『経国美談』を発表し、大隈重信のアドバイザーにもなる。(5)木幡篤次郎。慶應2年から4年と、明治23年から30年まで慶應義塾の塾長を務める。そのほか明治生命の設立や、明治15年には立憲改進党の結成に参加。国会開設とともに貴族院の勅選議員ともなった。以上を中心として、交詢社の創設が準備されていくことになる。

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