越境し、物語る役割
by shidarapress
緒方塾の塾生たちは、学問のことについては少しも怠ったことはない。その様子を言えば、江戸にいた学生が折々に大阪に来て学ぶということはあったが、大阪からわざわざ江戸に学びに行くということはない。行けば、それはすなわち教えるということであった。
緒方塾の塾生たちは、学問のことについては少しも怠ったことはない。その様子を言えば、江戸にいた学生が折々に大阪に来て学ぶということはあったが、大阪からわざわざ江戸に学びに行くということはない。行けば、それはすなわち教えるということであった。
この慶應義塾は、日本の「新しい学」のためには、オランダの出島と同様、世の中のいかなる騒動があっても、変乱があっても、いまだかつて新しい学問の命脈を絶やしたことない。慶應義塾は一日も休業したことはない、この塾のある限り、この日本は世界の文明国です。世間に頓着してはなりません。そういって、おおぜいの学生を励ましたことがあります。203
横浜はまさしく開けたばかりのところ。そこで私は横浜に見物に行った。行ってみたところ、ちっとも言葉が通じない。こっちの言うこともわからなければ、向こうの言うこともわからない。店の看板も読めなければ、ビンの貼り紙も分からない。なにを見ても私の知っている文字というものがない。英語だかフランス語だか、いっこうに分からないのだ。99
国は帰らず、鉄砲を捨ててそのまま塾(=慶應義塾)に来たというような若者がなかなか多い。なかにいた高知の若武者などは大小の太刀をさして、鉄砲こそもたないが、いまにも斬ってかかろうというような恐ろしい形相をしている。そうかと思うと、その若武者が赤い女の着物を着ている。これはどうしたのか? と聞くと、山形でぶんどってきた着物だといって威張っている。じつに血なまぐさい恐ろしい人物で、一見して手のつけようがない。ソコデ私は、芝(新銭座)の塾をつくると同時に、きわめて簡単な塾則を用意することにした。204
1860年、『華英通語』という一冊を翻訳して出版したことがある。これがそもそも、私の出版のはじまりだ。まずこの3年間というものは、人に教えるというよりも自分で英語の研鑽を図ることに集中した。124
維新の騒乱もほどなく収まって、平和な世の中へとむかっていたが、新政府はまだまだ後片づけが容易でなく、明治5〜6年までは教育に手を付けることができず、もっぱら新しい学問を教えるのは慶應義塾だけだった。なんでも廃藩置県のあとになるまで慶應義塾ばかりが洋学に熱心で、それから文部省というものができ、大いに人間育成に力を入れることができるようになっていった。205
私の考えは、塾に少年を集めて原書を読ませることだけが目的ではありません。多様な方法を駆使して、この鎖国する旧態依然とした日本を打ち開いて、西洋流の文明を取り込み、新しい国家コンセプトをもって日本を世界から後れを取らないようにしたい。しかしこれを口でいうばかりではなく、自分自身から実際に始め、言うこととやることが違うようでは済むはずがない、そう思ってまず慎みをもち、一家の生活を考え、他人の世話にならないようにと心がける一方、世の中の動きを見て、母国・日本を新しくするために実行したいと思うことがあれば、世の常識に頓着せずに思い切って試みてきました。233
著訳書では、古来の文章法を破って、平易な文章を用いました。およそ、こういったことは当時の古風家に嫌われることなのですが、さいわい私の著訳は世間の人気を博し、渇いた者に水を与え、日照りのなかで夕立が降るように、その売れ行きはじつに驚くべきものでした。233
国中をあげて、古いものにしがみつく奴隷根性では、とても国がもちません。できることか、できないことか、ソンナことは躊躇せず、自分がその手本になってみようと思いつき、人間万事無頓着と覚悟を決め、ただ独立独歩と心を定めた。297