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Some postcards for a post-disciplinary approach —新しい「知と方法」へ—

タグ: Keio Gijuku

慶應義塾 〜はじまりの原理〜

by shidarapress

慶応4年(1968年)4月10日、福沢諭吉は、つぎのような書簡を山口良蔵に送っている。

「ぼくは学校の先生ではないし、生徒はぼくの門人でもありません。こうした関係を一社中と名づけよう。ぼくは社頭の職をまっとうしたいと思う」

ここには、共同体型でも、官僚制でもない、自発結社型の新しい原理によって、福沢が義塾を起こそうとしていたことが示されている。

なお、この翌日4月11日が江戸城無血開城で、徳川慶喜が江戸を去り、水戸に向かう。そして、この手紙が送られた5ヶ月後の9月8日、時代は明治と呼ばれるようになる。

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和歌山リンケージ

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まだ慶應義塾と改称する前の1863年から、その後1882年にかけて、慶應義塾で学んだ者の総数は3967名にのぼる。出身地別に見ると、もっとも多いのが武蔵国で551名。次いで多かったのが和歌山の178名だった。この178名のなかには、のちに慶應義塾の塾長になる小泉信吉もふくまれる。当時、和歌山藩は、中津、長岡とならんで「塾の三藩」と呼ばれた。

慶應義塾と和歌山藩とのラディカル・コネクティビティを用意したのは山口良蔵だった。山口と福沢は適塾で出会い、以後も親しい友人関係にあった。その山口が和歌山藩に雇われた。当時かれらは藩政改革をすすめ、新しいタイプの人材育成に力を入れていた。こうしたなか、山口の働きかけによって、多数の和歌山出身者が慶應義塾に学ぶことになる。

開明派の儒者であった田中善蔵は、山口と協議して福沢を和歌山に招こうとした。だが結局、招聘は実現しなかった。それでも、和歌山と福沢とのあいだに関わりがあったことが知られている。前出の山口良蔵と田中善蔵が媒介したのだろうが、藩主であった徳川茂承にかわって「義田結社」の設立趣意書を執筆したのは、福沢であった。

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慶應義塾の初期メンバー

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1858年、福沢諭吉が蘭学の塾として開設。1868年に慶應義塾と改称し、1920年に慶應義塾大学となった。

福沢が江戸に蘭学塾を開いたのは藩命によるもので、奥平家の中屋敷をその場所とした。初期の福沢塾を構成したのは、福沢が17年半にわたって暮らした中津藩出身者たちであった。和田慎次郎(のちの福沢英之助)、和田克太郎、小幡弥が最古参。

1864年の中津帰省時には、英学と塾の発展を担う若者を求め、小幡篤次郎、小幡甚三郎、浜野定四郎、服部浅之助、三輪光五郎、小幡貞次郎の6人をつれて江戸に戻っている。また藩の重役である島津祐太朗の子・島津万次郎や、旧藩主にあたる奥平昌邁も、福沢のすすめで慶應義塾に入塾している。

なお、明治元年の1868年あたりは中津でも攘夷論者が活動しており、福沢は朝吹英二や増田栄太郎らの暗殺ターゲットとなっていた。しかし朝吹と増田さえ、その後、福沢の考え方を受け入れて慶應義塾に入塾している。

また福沢は、中津から人材を見いだす一方、中津の地でも人びとが英学を学び、新しい社会の担い手となってゆくことに大きな関心を払っていた。

1871年の帰省時には、藩の重役に対し、英学を学ぶことのできる学校の開設を勧めている。この働きかけが、翌1872年、中津市学校の創設として具体化される。旧藩主の名で発表された市学校の設立趣意書は、もとはといえば福沢による立案だった。1873年、旧藩主である奥平一家の東京転居に同伴するため中津に帰省した際、この市学校にも足を運び視察している。

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