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Some postcards for a post-disciplinary approach —新しい「知と方法」へ—

タグ: 設立趣意書

和歌山リンケージ

by shidarapress

まだ慶應義塾と改称する前の1863年から、その後1882年にかけて、慶應義塾で学んだ者の総数は3967名にのぼる。出身地別に見ると、もっとも多いのが武蔵国で551名。次いで多かったのが和歌山の178名だった。この178名のなかには、のちに慶應義塾の塾長になる小泉信吉もふくまれる。当時、和歌山藩は、中津、長岡とならんで「塾の三藩」と呼ばれた。

慶應義塾と和歌山藩とのラディカル・コネクティビティを用意したのは山口良蔵だった。山口と福沢は適塾で出会い、以後も親しい友人関係にあった。その山口が和歌山藩に雇われた。当時かれらは藩政改革をすすめ、新しいタイプの人材育成に力を入れていた。こうしたなか、山口の働きかけによって、多数の和歌山出身者が慶應義塾に学ぶことになる。

開明派の儒者であった田中善蔵は、山口と協議して福沢を和歌山に招こうとした。だが結局、招聘は実現しなかった。それでも、和歌山と福沢とのあいだに関わりがあったことが知られている。前出の山口良蔵と田中善蔵が媒介したのだろうが、藩主であった徳川茂承にかわって「義田結社」の設立趣意書を執筆したのは、福沢であった。

設樂剛事務所

早矢仕 有的

by shidarapress

早矢仕 有的(はやし ゆうてき) は、福沢諭吉の考える「実践の知」を率先して体現する存在だった。早矢仕は「丸善」の創業者で、明治元年、横浜新浜町に「丸屋」という名の書店を開業する。丸屋と命名するにあたっては、2歳半年上の福沢などにも相談をした。

翌明治2年には、書物や医薬品などを扱う「丸屋商社」として正式にスタート。このさい『 丸屋商社之記 』という設立趣意書を発表している。丸善自身によれば、これは「日本初の設立趣意書」だと謳っている。いったい誰が趣意書を書いたのかについては諸説あって、『福澤諭吉全集』では、執筆者は福沢だとされている。その一方『丸善百年史』では、(1)早矢仕の考えを熟知した沢井秀造説、(2)早矢仕が起草したものに福沢が手を入れたとする説、(3)沢井が起草したものに福沢が手を入れたとする説があるが、結局は確定できていない。

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