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Some postcards for a post-disciplinary approach —新しい「知と方法」へ—

タグ: 荘田平五郎

福沢諭吉と関西分校構想

by shidarapress

かつて大阪、京都、徳島に慶應義塾があった。まず1873年(明治6年)11月、大阪慶應義塾ができた。翌年1874年(明治7年)2月、京都慶應義塾が開設された。京都の塾生数はわかっていない。大阪の場合『入社帳』が残っていてそこには86名の塾生が記録されている。

明治維新の激震が徐々に鎮まりをみせると、明治政府が文明開化の方針を掲げた効果で次第々々に洋学への世間的関心が高まってきた。そうした背景のなか福沢諭吉は東京に塾生を募るだけでなく、自ら地方に出て行って新しいタイプの人材を育成しようと考えた。こうして計画・実現したのが大阪と京都の慶應義塾だった。ところが大阪慶應義塾はだいたい1年半で、京都慶應義塾については1年ほどで撤退している。失敗したと言っていい。

大阪慶應義塾の主唱者・荘田平五郎はこんな抱負を語っていた。「文学と商業を切り離してはならない」(文学を商業ニ結付候)。ところが大阪文化圏では、商売に学問は不要という気風が根強かった。文学と商業の結合という荘田のコンセプトは容易には浸透しなかった。京都慶應義塾の場合、府立の学校がすでにあって義塾はその一部を間借りしていた。府立校ではネイティヴが発話中心の授業をし、その一部を借りている義塾は英書読解を中心とする学習スタイルだった。

不振だった大阪慶應義塾に対し、徳島に来ませんかという声がかかった。徳島慶應義塾ができた。その徳島分校も49名の塾生を生み出しながら、1876年(明治9年)11月に幕を閉じる。49名のうち40名は大阪転校組だったから徳島組は9名だった。福沢の構想した関西分校プランはどれも失敗。福沢思想と文明開化のエスプリはむしろ各地に発達した各種学校への派遣教員によって共有されていった。

設樂剛事務所

 

「読書院」構想

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「読書院」をはじめるので、有志を募り、関係者の参加をうながす1通の手紙がある。福沢諭吉から肥田昭作に充てられたものだ。いつ書かれたのかについては明治8年説と10年説があるが、ともあれこの書簡以外に資料がなく、「読書院」構想が実現したかは、はっきりしないらしい。

「おい、一緒に読もう」と福沢に声をかけられたのは、肥田昭作と阿部泰蔵と荘田平五郎をはじめとするメンバーだった。肥田はこの3ヶ月前に東京外国語学校の校長を辞めている。阿部はこの1ヶ月前に文部省を辞任しており、荘田は三菱商会で翻訳係をしていた。福沢はこの手紙の中で「いまからニューライフと思って、しっかり学びなさいな」といっている。

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明治生命のはじまり

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阿部泰蔵と物集女清久が中心となって準備が進められ、明治14年7月、「明治生命保険会社」の設立総会が開かれる。ことの発端は、この1年半ほど前にさかのぼる。明治12年の年末のことだ。これは「交詢社」がスタートする、ひと月ほど前にあたる。

福沢諭吉のもとに集まった木幡篤次郎、小泉信吉、荘田平五郎らのあいだで、ひとつの観念が話題になっていた。「生命保険」である。このコンセプトがまもなく膨らんで、明治生命の誕生へとつながっていく。

発起人には、創業者の阿部泰蔵のほか、木幡篤次郎、早矢仕有的、荘田平五郎をはじめ、早矢仕の盟友である中村道太、中津藩の初代知事で、家臣だった福沢諭吉にアメリカ留学を勧められた奥平昌邁、国立大十五銀行や百十九銀行などの頭取を歴任した肥田昭作、三有鉱業で社長職にあった杉本正徳らの名前が並んでいる。

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