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Some postcards for a post-disciplinary approach —新しい「知と方法」へ—

タグ: 肥田昭作

「読書院」構想

by shidarapress

「読書院」をはじめるので、有志を募り、関係者の参加をうながす1通の手紙がある。福沢諭吉から肥田昭作に充てられたものだ。いつ書かれたのかについては明治8年説と10年説があるが、ともあれこの書簡以外に資料がなく、「読書院」構想が実現したかは、はっきりしないらしい。

「おい、一緒に読もう」と福沢に声をかけられたのは、肥田昭作と阿部泰蔵と荘田平五郎をはじめとするメンバーだった。肥田はこの3ヶ月前に東京外国語学校の校長を辞めている。阿部はこの1ヶ月前に文部省を辞任しており、荘田は三菱商会で翻訳係をしていた。福沢はこの手紙の中で「いまからニューライフと思って、しっかり学びなさいな」といっている。

設樂剛事務所

福沢諭吉のアドバイザー

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肥田昭作は、幕府がオランダに注文して造った「咸臨丸」の航海に、教授方として乗船する。彼はやがて慶應義塾の教員となり、その後、文部省へと移って出版免許の課長を務めた。さらにその後、肥田はビジネス界に転身する。三菱為替会社に勤務するが、やがて養父が創設に参加した国立大十五銀行の頭取に任じられる。ついで百十九銀行や壬午銀行の頭取も歴任した。慶應義塾初期の有力門下生の一人とされ、義塾維持のファンド・レイジングにあたっては福沢諭吉の相談相手となっていた。

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明治生命のはじまり

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阿部泰蔵と物集女清久が中心となって準備が進められ、明治14年7月、「明治生命保険会社」の設立総会が開かれる。ことの発端は、この1年半ほど前にさかのぼる。明治12年の年末のことだ。これは「交詢社」がスタートする、ひと月ほど前にあたる。

福沢諭吉のもとに集まった木幡篤次郎、小泉信吉、荘田平五郎らのあいだで、ひとつの観念が話題になっていた。「生命保険」である。このコンセプトがまもなく膨らんで、明治生命の誕生へとつながっていく。

発起人には、創業者の阿部泰蔵のほか、木幡篤次郎、早矢仕有的、荘田平五郎をはじめ、早矢仕の盟友である中村道太、中津藩の初代知事で、家臣だった福沢諭吉にアメリカ留学を勧められた奥平昌邁、国立大十五銀行や百十九銀行などの頭取を歴任した肥田昭作、三有鉱業で社長職にあった杉本正徳らの名前が並んでいる。

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