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Some postcards for a post-disciplinary approach —新しい「知と方法」へ—

タグ: 慶應義塾

江戸幕府を支えた学問

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1630年、47歳を迎えた林羅山は、東京・上野の忍岡(しのぶがおか)に学寮を建て、「忍岡学塾」を開く。土地は3代将軍家光が与えた。羅山は、徳川家康から4代将軍まで仕え、初期江戸幕府の基盤形成におおきく関わった朱子学者であり、博物学的な知性をもっていた。羅山と家康の関係からも分かるように、朱子学は幕藩体制を支える理念になっていく。師匠の藤原惺窩が、羅山を家康に繋いだ。忍岡学塾(1630)は、のちに湯島聖堂学問所(1690)に、さらに昌平坂学問所 (1797)となり、官立学校・昌平学校(1868)へと続いていくが、明治に入って閉鎖・廃止に。なお福沢の私塾は、1866年その名を慶應義塾と改める。

note: 忍岡の名は現在も残っている。東京大学 本郷キャンパス裏手の台東区立忍岡小学校や、上野恩賜公園を挟んだ、鶯谷駅近くに位置する台東区立忍岡中学校など/藤原惺窩(1561-1619)幼少の頃に僧侶となるも仏教への疑問から儒学の世界へ/林羅山(1583-1657)/徳川家康(1543-1616)/徳川家綱(4代将軍, 1641-1680)/湯島聖堂学問所(1691年, 林信篤に始まり、林家が代々、大学頭に登用されていく。だが明治に入ると儒学は新時代を先導する学問とはみなされなくなる)/福沢諭吉(1835-1901), 1858年に私塾を開き1866年に慶應義塾と改称/東京大学の歴史

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潰れてかまわない

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ぜひとも慶應義塾を永久に残しておかなければならない、という義務もなければ名誉心もない。はじめから、揺るぎなくそう思っている。だから世の中に怖いものがない 234。 福沢は別のところで、こうも語っている「塾(慶應義塾のこと)の盛衰に気を揉むようなバカなことはしないと、腹の底に極端の覚悟を決め、塾を開いた。そのときから、いつでもこの塾を潰してしまおうと始終考えているから、少しも怖いことはない」と 307 自分が開いた塾の盛衰に一喜一憂することなど愚かなことであるし、未来社会の役にたたず、周囲からの支持がなくなれば、自ずからなくなって当然ではないかと考えていたわけだ。

慶應義塾 〜はじまりの原理〜

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慶応4年(1968年)4月10日、福沢諭吉は、つぎのような書簡を山口良蔵に送っている。

「ぼくは学校の先生ではないし、生徒はぼくの門人でもありません。こうした関係を一社中と名づけよう。ぼくは社頭の職をまっとうしたいと思う」

ここには、共同体型でも、官僚制でもない、自発結社型の新しい原理によって、福沢が義塾を起こそうとしていたことが示されている。

なお、この翌日4月11日が江戸城無血開城で、徳川慶喜が江戸を去り、水戸に向かう。そして、この手紙が送られた5ヶ月後の9月8日、時代は明治と呼ばれるようになる。

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和歌山リンケージ

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まだ慶應義塾と改称する前の1863年から、その後1882年にかけて、慶應義塾で学んだ者の総数は3967名にのぼる。出身地別に見ると、もっとも多いのが武蔵国で551名。次いで多かったのが和歌山の178名だった。この178名のなかには、のちに慶應義塾の塾長になる小泉信吉もふくまれる。当時、和歌山藩は、中津、長岡とならんで「塾の三藩」と呼ばれた。

慶應義塾と和歌山藩とのラディカル・コネクティビティを用意したのは山口良蔵だった。山口と福沢は適塾で出会い、以後も親しい友人関係にあった。その山口が和歌山藩に雇われた。当時かれらは藩政改革をすすめ、新しいタイプの人材育成に力を入れていた。こうしたなか、山口の働きかけによって、多数の和歌山出身者が慶應義塾に学ぶことになる。

開明派の儒者であった田中善蔵は、山口と協議して福沢を和歌山に招こうとした。だが結局、招聘は実現しなかった。それでも、和歌山と福沢とのあいだに関わりがあったことが知られている。前出の山口良蔵と田中善蔵が媒介したのだろうが、藩主であった徳川茂承にかわって「義田結社」の設立趣意書を執筆したのは、福沢であった。

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慶應義塾の初期メンバー

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1858年、福沢諭吉が蘭学の塾として開設。1868年に慶應義塾と改称し、1920年に慶應義塾大学となった。

福沢が江戸に蘭学塾を開いたのは藩命によるもので、奥平家の中屋敷をその場所とした。初期の福沢塾を構成したのは、福沢が17年半にわたって暮らした中津藩出身者たちであった。和田慎次郎(のちの福沢英之助)、和田克太郎、小幡弥が最古参。

1864年の中津帰省時には、英学と塾の発展を担う若者を求め、小幡篤次郎、小幡甚三郎、浜野定四郎、服部浅之助、三輪光五郎、小幡貞次郎の6人をつれて江戸に戻っている。また藩の重役である島津祐太朗の子・島津万次郎や、旧藩主にあたる奥平昌邁も、福沢のすすめで慶應義塾に入塾している。

なお、明治元年の1868年あたりは中津でも攘夷論者が活動しており、福沢は朝吹英二や増田栄太郎らの暗殺ターゲットとなっていた。しかし朝吹と増田さえ、その後、福沢の考え方を受け入れて慶應義塾に入塾している。

また福沢は、中津から人材を見いだす一方、中津の地でも人びとが英学を学び、新しい社会の担い手となってゆくことに大きな関心を払っていた。

1871年の帰省時には、藩の重役に対し、英学を学ぶことのできる学校の開設を勧めている。この働きかけが、翌1872年、中津市学校の創設として具体化される。旧藩主の名で発表された市学校の設立趣意書は、もとはといえば福沢による立案だった。1873年、旧藩主である奥平一家の東京転居に同伴するため中津に帰省した際、この市学校にも足を運び視察している。

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福沢諭吉のアドバイザー

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肥田昭作は、幕府がオランダに注文して造った「咸臨丸」の航海に、教授方として乗船する。彼はやがて慶應義塾の教員となり、その後、文部省へと移って出版免許の課長を務めた。さらにその後、肥田はビジネス界に転身する。三菱為替会社に勤務するが、やがて養父が創設に参加した国立大十五銀行の頭取に任じられる。ついで百十九銀行や壬午銀行の頭取も歴任した。慶應義塾初期の有力門下生の一人とされ、義塾維持のファンド・レイジングにあたっては福沢諭吉の相談相手となっていた。

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慶應義塾の解散提案

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慶應義塾維持の資金あつめに失敗すると、福沢は、当時の慶應義塾 塾長だった浜野定四郎に手紙を書く。こう綴られていた。「開塾以来、20年あまりがすぎた」「一生涯の仕事としても沢山」。義塾の運営に見切りをつけたのだ。そして慶應義塾の解散さえ提案した。明治13年10月のことだった。

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交詢社の5人組

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明治13年1月25日、芝の青松寺。「 交詢社 」は、この場所で発会式を行った。主唱したのは福沢諭吉。設立準備は、以下の5名を中心に進められる。

(1)小泉信吉。このあと横浜正金銀行の副頭取や、明治20年には慶應義塾総長(のち塾長)に就任する。(2)福沢が「気品高尚」「文思緻密」と褒め称えた馬場辰猪。(3)阿部泰蔵。「丸善」創業者の早矢仕有的(はやし ゆうてき)らと英学を学び、やがて慶應義塾で「インテレクチュアル・ヒロソヒイ」を担当する。また、交詢社発会式から1年半後に「明治生命」創立者となる。(4)矢野文雄。大阪慶應義塾や徳島慶應義塾で教鞭を執ったほか、郵便報知新聞の社長をつとめる。立憲改進党の設立にも関与した。その一方で、のちに政治小説『経国美談』を発表し、大隈重信のアドバイザーにもなる。(5)木幡篤次郎。慶應2年から4年と、明治23年から30年まで慶應義塾の塾長を務める。そのほか明治生命の設立や、明治15年には立憲改進党の結成に参加。国会開設とともに貴族院の勅選議員ともなった。以上を中心として、交詢社の創設が準備されていくことになる。

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