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Some postcards for a post-disciplinary approach —新しい「知と方法」へ—

タグ: 小泉信吉

明治生命のはじまり

by shidarapress

阿部泰蔵と物集女清久が中心となって準備が進められ、明治14年7月、「明治生命保険会社」の設立総会が開かれる。ことの発端は、この1年半ほど前にさかのぼる。明治12年の年末のことだ。これは「交詢社」がスタートする、ひと月ほど前にあたる。

福沢諭吉のもとに集まった木幡篤次郎、小泉信吉、荘田平五郎らのあいだで、ひとつの観念が話題になっていた。「生命保険」である。このコンセプトがまもなく膨らんで、明治生命の誕生へとつながっていく。

発起人には、創業者の阿部泰蔵のほか、木幡篤次郎、早矢仕有的、荘田平五郎をはじめ、早矢仕の盟友である中村道太、中津藩の初代知事で、家臣だった福沢諭吉にアメリカ留学を勧められた奥平昌邁、国立大十五銀行や百十九銀行などの頭取を歴任した肥田昭作、三有鉱業で社長職にあった杉本正徳らの名前が並んでいる。

設樂剛事務所

交詢社の5人組

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明治13年1月25日、芝の青松寺。「 交詢社 」は、この場所で発会式を行った。主唱したのは福沢諭吉。設立準備は、以下の5名を中心に進められる。

(1)小泉信吉。このあと横浜正金銀行の副頭取や、明治20年には慶應義塾総長(のち塾長)に就任する。(2)福沢が「気品高尚」「文思緻密」と褒め称えた馬場辰猪。(3)阿部泰蔵。「丸善」創業者の早矢仕有的(はやし ゆうてき)らと英学を学び、やがて慶應義塾で「インテレクチュアル・ヒロソヒイ」を担当する。また、交詢社発会式から1年半後に「明治生命」創立者となる。(4)矢野文雄。大阪慶應義塾や徳島慶應義塾で教鞭を執ったほか、郵便報知新聞の社長をつとめる。立憲改進党の設立にも関与した。その一方で、のちに政治小説『経国美談』を発表し、大隈重信のアドバイザーにもなる。(5)木幡篤次郎。慶應2年から4年と、明治23年から30年まで慶應義塾の塾長を務める。そのほか明治生命の設立や、明治15年には立憲改進党の結成に参加。国会開設とともに貴族院の勅選議員ともなった。以上を中心として、交詢社の創設が準備されていくことになる。

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