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Some postcards for a post-disciplinary approach —新しい「知と方法」へ—

タグ: 交詢社

『 交詢雑誌 』45号

by shidarapress

『福澤諭吉書簡集』によれば、「交詢社」発会式当日の社員数は1767人。職業別に見ると官吏が371名にのぼり、これとほぼ同数にあたるのが学者たちで365名あまり。ここで学者とは、教員、教導職、医師、新聞記者が含まれた。このほかにも商工業者、農地主、華族などが参加し、じつに多様なメンバー構成だった。

交詢社は、東京本社以外にも各地方に支店を設けたほか、『交詢雑誌』の編集と発行をおこなった。しばしば特筆されてきたのは『交詢雑誌』45号で、この号では、当時の自由民権運動の高まりを背景に「私擬憲法案」を掲載している。「議院内閣制」「二院制」「君民共治」「財産制限選挙」などのコンセプトを交詢社案として提案すると、各地の新聞にも転載(シェア)され、当時の政治情勢に多くの影響を与えていく。しかし「 明治14年の政変 」が起こると、官吏などの脱会者が相次いだようで、その後は次第に「純然たる社交クラブ」へと変容していくことになる。

設樂剛事務所

交詢社の5人組

by shidarapress

明治13年1月25日、芝の青松寺。「 交詢社 」は、この場所で発会式を行った。主唱したのは福沢諭吉。設立準備は、以下の5名を中心に進められる。

(1)小泉信吉。このあと横浜正金銀行の副頭取や、明治20年には慶應義塾総長(のち塾長)に就任する。(2)福沢が「気品高尚」「文思緻密」と褒め称えた馬場辰猪。(3)阿部泰蔵。「丸善」創業者の早矢仕有的(はやし ゆうてき)らと英学を学び、やがて慶應義塾で「インテレクチュアル・ヒロソヒイ」を担当する。また、交詢社発会式から1年半後に「明治生命」創立者となる。(4)矢野文雄。大阪慶應義塾や徳島慶應義塾で教鞭を執ったほか、郵便報知新聞の社長をつとめる。立憲改進党の設立にも関与した。その一方で、のちに政治小説『経国美談』を発表し、大隈重信のアドバイザーにもなる。(5)木幡篤次郎。慶應2年から4年と、明治23年から30年まで慶應義塾の塾長を務める。そのほか明治生命の設立や、明治15年には立憲改進党の結成に参加。国会開設とともに貴族院の勅選議員ともなった。以上を中心として、交詢社の創設が準備されていくことになる。

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