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Some postcards for a post-disciplinary approach —新しい「知と方法」へ—

タグ: フロイト

ウィーンが産んだ反逆児たち

by shidarapress

以下は、ウィーンという名の〝母〟が産み出した反逆児たち、ハプスブルク体制を覆した次代の担い手たちである。彼らは共通して、人とは違った仕方で世界を認識していた。ただしそこには創造的な文化英雄ばかりでなく、市民社会の攪乱者もいた。ヒトラー誕生の秘密もウィーンに隠されている。

◉ ウィーンという都市が、いよいよ〝運命の都〟のように思われてくる。なぜなら、ここに集まった人間が、さまざまな人生をたどりながらつくりだした文化、政治、そして事件が、20世紀を決定した、といってもいいからである。ウィーンという名の〝母〟は、じつに多産だった。

だが、ウィーンが産み落とした子どもたちは、どれもが鬼子のように思われたことだろう。19世紀末のウィーンが産み育てた文化は、ハプスブルク体制の常識からするなら、およそ異端児であり、反逆児であり、手に負えない子どもたちだったからである。

芸術の分野でいうなら「分離派」を創設したクリムトにしろ、ココシュカ、シーレといった画家たちにせよ、音楽の領域なら、十二音音楽をつくりだしたシェーンベルクにせよ、また、建築に関していえば、オットー・ヴァーグナーやアドルフ・ロースにしても、まさしくそうであった。学問の領域においても、フロイトの精神分析は世間を驚かせるのに十分だったし、哲学ではウィーン学団が、それまでの思考を根本から変革しようとしていた。さらに、政治運動においても、あのシオニズム運動の指導者テオドール・ヘルツルは、ウィーンの新聞「ノイエ・フライエ・プレッセ」のもっとも権威ある文芸欄の編集者として、多くの作家たちを発掘していたのである。

しかし、なかでも、この都市が育てた文字どおりの鬼子は、ほかならぬヒトラーであった。ウィーンにとって、それはこの上ない災難であったにちがいないが、この都市を語るときには、どうしても彼を除外するわけにはいかない。 森本哲郎『ウィーン』1992, pp.298-9.

ソクラテスの問答法

by shidarapress

柄谷行人です。ええと、ぼくは『哲学の起源』という本を2012年に書きまして、そのなかで「ソクラテスの問答法」について取りあげました。197ページあたりですね。そう、そこです。はい。で、ソクラテスの問答は、通常「対話」と呼ばれるものとは異質であるとぼくは考えているんですね。それは、異なった意見をもつ者が話しあい、説得しあうといったものではまったくないからなんです。だって、ソクラテスは「問うだけ」なんですから。ソクラテスの問答法は、プラトンの著作を通じて知られているのですが、実際それは、プラトンの「対話」に書かれたようなものではなかったと思うんです。プラトンは、問答がまるで一定の終わりといいますか、一定の目的に向かって進んでいくように書くわけです。そうした対話は、実際のところ自己対話です。要は、内省であって、他者との対話とは言えません。他者との対話は、こんなに都合よく完結するはずはないんですよ。

ソクラテスの「対話」は、まあ、そう呼んでいいならですけれど、彼の対話の特徴は、対話者の関係の非対称性にあるんですよね。これに類似するのはフロイトです。彼の創始した、精神分析における患者と分析医の関係ですね。これは「対話」療法と呼ばれます。通常の対話とは異なります。これは患者の「自覚」を引き出す産婆術に近いんですよ。

ただ、ソクラテスの問答法というのはけっこう強引だったわけです。ディオゲネス・ラエルティオスはこう書いています:

ソクラテスの議論はますます強引なものになっていた。だから彼は人びとからげんこつで殴られたり、髪の毛を引っ張られることもしばしばであった。

どうやらソクラテスの問答法は、相手の側に、過度の転移や抵抗をもたらしたことが想像できるわけです。ソクラテスという人は、アゴラと呼ばれる広場や市場に行って、誰彼となく話しかけるんですね。そこから問答が始まっていく。これはなかなか注目すべきことです。彼は民会に行く代わりに市場に行った。というのも、市場というのは決して公人にはなりえない人たち、まァつまり、外国人、女性、奴隷がいたわけです。民会にはデモクラシーがあるとすれば、広場や市場にはイソノミア、つまり自由がありました。アテネでは、広場・市場にしか自由はありえなかった、といっていいんですね。ですから、もっぱら広場のほうで活動することで、ソクラテスはそうと知らずに、イオニア的な思想を回復させていったわけです。

それとソクラテスは、かつて誰もやったことのない方法をとりました。それが一人ひとりとの問答です。彼は聴衆全体に向かって語ることはありませんでした。こうした問答のプロセスで、ソクラテスはただ「問うだけ」です。積極的なことはおよそ何もいわなかったんですね。どんなに相手がたくさんいても、一人ひとりと問答しました。彼は自ら編み出した問答法を「産婆術」と呼んでいました。人に教えるのではなくて、相手の思い込みを払拭して、もうひとつの認識に到達することを助けようとしたわけです。