shidara press

Some postcards for a post-disciplinary approach —新しい「知と方法」の探究—

タグ: アドルフ・ロース

カール・クラウス:知的アナキスト

shidara pressでは、世界史の中で人間が創造性を発揮した場面を折々に取りあげている。人間の知的創造性といえば、ウィーン生まれの科学哲学者ポール・ファイヤアーベントは、知(science)の新たな展開や創発を妨げない重要な原則は「Anything Goes!」だと語った。これは従来の個別科学(discipline)が採用する方法への挑戦であり「知のアナーキズム」だった。この意味でのアナーキズムは、政府を批判する無政府主義のことではなく、既成の権威ある学問のあり方や、正統的とされる方法論を批判し、新たな「知と方法」の可能性を探究する、創造的な知的態度を指す。以下はサイエンスの分野ではないが、文化的アナキストと呼ばれたカール・クラウスに対するいくつかの評判だ。じつに賛否の激しい人だった。

◉ カール・クラウス(Karl Kraus, 1926年ノーベル文学賞ノミネイト)については、村山雅人『反ユダヤ主義:世紀末ウィーンの政治と文化』で1章が割かれている(第7章)。章題は「文化的アナキスト クラウス」である。そこでは、クラウスが「オーストリアの文学史において唯一無二の存在」であり、「知的テロリスト」として描かれている。賛否の激しい人だった。味方は多くなかった。賛同者の声をいくつか拾っておく———「このアンチ・ジャーナリストにたいして、しばしば心からの感動」を感じた(ヘルマン・ブロッホ)/「カール・クラウスは、唯一偉大な、倫理観に裏打ちされた論争家で風刺家である」(テオドール・ヘッカー)/「聡明な友」であり「われわれの時代第一級の作家」(ベルトルト・ブレヒト)/「神や自然から遠くかけ離れてしまった人類に途を示した人物」(アドルフ・ロース)。クラウスに対する敵対者の声からもいくつか。「ツァラトゥストラの猿」(アントン・クー)/「オーストリアの墓掘り人夫」(ヨーゼフ・ロート)/「名うての悪ガキ」(シュニッツラー)/「世間の人びとに嫌悪を呼び起こす存在以外の何者でもない」(フランツ・ヴェルフェル)。

note: カール・クラウス(Karl Kraus, 1874-1934)/ポール・ファイヤアーベント(Paul Karl Feyerabend, 1924-1994)/ヘルマン・ブロッホ(Hermann Broch, 1886-1951)/テオドール・ヘッカー(Theodor Haecker, 1879-1945)/ベルトルト・ブレヒト(Bertolt Brecht, 1898-1956)/アドルフ・ロース(Adolf Loos, 1870-1933)/アントン・クー(Anton Kuh, 1890-1941)/ヨーゼフ・ロート(Joseph Roth, 1894-1939)/シュニッツラー(Arthur Schnitzler, 1862-1931)/フランツ・ヴェルフェル(Franz Werfel, 1890-1945)

カフェ「ツェントラール」

19世紀末のウィーンのカフェは頽廃を象徴するような場所だった。だがそのなかには次の時代を創るアイコニックな連中も混ざっていた。

◉ 作家や芸術家たちのたまり場だったカフェハウス「グリーンシュタイトル」が1897年に店を閉じると、常連たちはいっせいにカフェ「ツェントラール」へと移ってきた。亡命中のトロツキーも変名でよくここに足を運んだ。のちにロシア革命がおこり、新たに樹立されたソヴィエト政権でかれが人民委員になったとき、「ツェントラール」の常連たちは、「へえ、あの男が」と、さすがに驚いたという話は有名だ。 森本哲郎『ウィーン』1992, p.88を加筆・編集.

ウィーンが産んだ反逆児たち

以下は、ウィーンという名の〝母〟が産み出した反逆児たち、ハプスブルク体制を覆した次代の担い手たちである。彼らは共通して、人とは違った仕方で世界を認識していた。ただしそこには創造的な文化英雄ばかりでなく、市民社会の攪乱者もいた。ヒトラー誕生の秘密もウィーンに隠されている。

◉ ウィーンという都市が、いよいよ〝運命の都〟のように思われてくる。なぜなら、ここに集まった人間が、さまざまな人生をたどりながらつくりだした文化、政治、そして事件が、20世紀を決定した、といってもいいからである。ウィーンという名の〝母〟は、じつに多産だった。

だが、ウィーンが産み落とした子どもたちは、どれもが鬼子のように思われたことだろう。19世紀末のウィーンが産み育てた文化は、ハプスブルク体制の常識からするなら、およそ異端児であり、反逆児であり、手に負えない子どもたちだったからである。

芸術の分野でいうなら「分離派」を創設したクリムトにしろ、ココシュカ、シーレといった画家たちにせよ、音楽の領域なら、十二音音楽をつくりだしたシェーンベルクにせよ、また、建築に関していえば、オットー・ヴァーグナーやアドルフ・ロースにしても、まさしくそうであった。学問の領域においても、フロイトの精神分析は世間を驚かせるのに十分だったし、哲学ではウィーン学団が、それまでの思考を根本から変革しようとしていた。さらに、政治運動においても、あのシオニズム運動の指導者テオドール・ヘルツルは、ウィーンの新聞「ノイエ・フライエ・プレッセ」のもっとも権威ある文芸欄の編集者として、多くの作家たちを発掘していたのである。

しかし、なかでも、この都市が育てた文字どおりの鬼子は、ほかならぬヒトラーであった。ウィーンにとって、それはこの上ない災難であったにちがいないが、この都市を語るときには、どうしても彼を除外するわけにはいかない。 森本哲郎『ウィーン』1992, pp.298-9.

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