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キトリッジは時折ふしぎな経験をする。

ある晩のことだった。相関主義批判をする、《Speculative Realism》(思弁的実在論)についての小さな論考を脱稿した直後、フリッツ・クレイマー(Fritz Kraemer)という人物を知った。

彼は、思弁的(speculative)とは、ほど遠く思われた。端的に言って、クレイマーは実際家だった。クレイマーの政治哲学のひとつが——。まずこの政治哲学という用語が強烈だった。クレイマーの政治哲学のひとつが、外交における力の優位だった。たった一行だが、テクスト上に現れることばが違う。まったく違う、記号の森に足を踏みいれた、とキトリッジは思った。……ここでいう力とは政治力であり、究極的には軍事力だった。クレイマーは、外交にかかわる重要な要因は、国家を超えた理念、たとえば宗教、あるいはマルクス社会主義のような宗教まがいの信条だとした。しかし彼は、理念というものが、国力や国益の足手まといになることを懸念していたという。

一昨日の晩、キトリッジは俗物中の俗物ともいうべき人物にかんする情報にうっかり触れてしまい、たちどころに気分が悪くなってしまった。そんな一件の余波があって、このクレイマーが目に入ってきてしまったのだろうと思う。その俗物氏も、ある面ではクレイマー、あるいはその教え子であるキッシンジャーと同種の人間であった。

ヘンリー・キッシンジャーを育てた人物としても知られるクレイマーの夢はなにか。それは参謀議長の顧問と外相の顧問になることだった。自分は考える人間だ。動く人間じゃない。スポットライトを浴びたり、人前でスピーチをする類いの人間じゃない。クレイマーを通じて、おなじphilosophyでも、political philosophyの養分をたっぷりと吸いとった樹木は、このような方向に伸びていくのだということをキトリッジは知らされる。

キトリッジは、「ビジネス」という概念の定義のひとつに「政治の場」があったことを思いだす。したがってビジネス界にもpolitical philosophyという、もうひとつのフィロソフィー(another philosophy)を重視する人びとがおり、クレイマーのような人物がいるということだ。理念は国益・社益の足手まといになる、大事なのは政治力、ひいては軍事力だと考えるような人間が。