Pocket

人類史上もっとも古い文字のひとつ。そう書かれているのを確かめてから、彼はゆっくりと楔形文字と綴った。さらに Litterae cunetaecuneiform scriptと綴る。ずいぶんと端正な文字だったのを覚えている。
「楔形文字という呼び名はね——」と彼は言い、「ドイツ人のケンペル が命名したんだ、18世紀にね」というありきたりの説明を続けた。きっとこのままでは「1700頃にはイギリス人——Th.ハイド——が、この呼称を使っていたとする説もある」と続けるだろう。このあたりの話はあまり興味がなかった。ぼくにとっては、 18Cの初頭ぐらいに楔形文字という言葉が生まれたことがわかれば、それでよかった。

メソポタミア文明で使われていたのが楔形文字だったのは、いいよね」と彼はすこし得意げに言った。
「粘土板 clay tablet と葦ペンを使って書いてたんだよね、たしか。紀元前3400年前には使われていたんだっけ」
「うん。でね、当初は縦書きだったらしい。ところが紀元前3000年頃あたりに、粘土板を90度横に向けるようになってから、左から右へと横書きにシフトしたんだ」
「古さでいうと、古代エジプトの象形文字にも匹敵するでしょ?」
「そうだね。もともと楔形文字も、当初は象形文字と呼ぶべきものだったから。文字記号が簡約化されていって、完全な楔形文字になったのは、だいぶ後のことになる」と彼は言った。

人間がメッセージを伝えるために、図形や絵を考え出したのは、数万年も前のことである。しかし、その記号やシンボルが体系づけられ、複雑な感情や考えまで表現できる「文字」となるまでには、長い時間が必要だった——みたいなことを彼は話し続けた。

「そして、ついに歴史上初めての文字が、メソポタミアに生まれたというわけだね」とぼくは話を継いだ。
「文字といっても、初期の楔形文字は “略画” さ。牛の頭の形を簡素化して『牛』を表した文字がある。初期の楔形文字は絵文字だったというわけ」
「そうだね」
「この絵文字が、いま知られているような楔形文字になったのが、BC2900年ごろらしい。このときに大きな変化が起きた。絵文字が消え、直線と三角形による記号が出現した。やがて、法典、論文、文学作品など、あらゆる分野の事柄を表記できるよう、楔形文字は発展していく」
「人類が初めて記号を使ったのは、どの分野でだろう」とぼくは質問した。
「農業。ラガシュでみつかった粘土板には、神殿の宗教的共同体が、18人のパン屋、31人のビール職人、7人の奴隷、1人の鍛冶屋を雇っていたことが示されてるしね」
やがて、古代シュメールやアッカド、バビロニア、アッシリアで、手紙や郵便が発明される、といった話が続いたあと、「粘土で作られた封筒も見つかっている。このように、文字にまつわる発明は数々あるが、なかでも『物語の誕生』を忘れてはならない」と彼は言った。
「楔形文字は、神々への賛歌や神託を書き残していたよね」
「それに、アッシリア王・アッシュールバニパルが、首都のニネヴェに図書館——世界最古の図書館——を建設するんだけど、そこには『ギルガメシュ叙事詩』が粘土板の断片として保存されていた。この叙事詩は、古代シュメール人から伝わったもので、ギリシア神話への壮大な予告編といえる。ここにはヘラクレスの物語の原型なども登場するし、旧約聖書にあるノアの方舟で有名な、あの大洪水を思わせる記述も見ることができるんだ」