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「これまでに書いたすべての作品の中から一冊だけ、火事場から救い出せるのだとしたら、私はこの作品を救い出すだろう」とバルガス・リョサ Mario Vargas Llosa は言った。

このノーベル賞作家が救い出す一冊とは、『ラ・カテドラルでの対話』(1969)である。上下二巻におよぶ記号の森は、岩波文庫なら赤帯796-4と5に入っている。本書は、次のエピグラフで始まる。

社会の生のすべてを探索しつくさなければ本物の小説家にはなれない、なぜなら、小説とは諸国民の私的歴史だからである。 バルザック

冒頭、ここを読んだ男は、この著者はエネルギーのありそうな男だと思った。

バルガス・リョサを表現する記号を並べていく。 1936年生まれ。マドリード大学卒業後、フランスに移住したものの定住はできず、その後、亡命者のような生活を送っていた。1974年(38歳)に外国生活にピリオドを打つ。1976年(40歳)、国際ペンクラブ International Association of Poets, Playwrights, Editors, Essayists, and Novelists: PEN 第14代会長。ペルーの小説家。政治活動もしたが、1990年(54歳)ペルーの大統領選挙に出馬し、アルベルト・フジモリに敗北。その後スペインに帰化。

テクストは、こう始まる。

《ラ・クロニカ》新聞社の入口から、サンティアーゴは、タクナ通りを何の愛情もなく眺めやる——自動車の群れ、高さの不揃いな色褪せたビル群、明かりの消えた電光看板の骨組みだけが、霧雨の中に浮かんでいる。灰色の正午。いったい、どの瞬間からペルーはだめになってしまったのか?

ああ、これで、もう読みたくない、と男は言った。

ホテル・クリヨンの前で、一匹の犬が彼の脚を舐めにやってくる。おまえは狂犬病じゃないだろうな、さっさと失せろ。ダメになってしまったペルー、と彼は考える。誰も彼もがダメになった。彼は考える。解決策はない。

「……。」

ある晩ベッドに入ろうとして、ゴキブリとクモの幻影を見たっていうのは本当なのか?、とノルウィンは言う。

いちいちこんな調子なのか、と男は嫌悪した。火事場からこの小説を救い出すんじゃなくて、この出だしから私を救い出してくれ、と男は言った。

主人公はサンティアーゴ。対話の相手は、かつての使用人アンブローシオ。ふたりは久々に再会する。

さあ、どこかで何か飲もう。このへんで、どこか知ってるかい?

いつも自分が食事をするところなら知ってますが、とアンブローシオは言う。〈ラ・カテドラル〉というんです。貧乏人向けの店なんで、お気に召すかどうか。

冷たいビールさえあれば気に入るさ、とサンディアーゴは言う。行こうじゃないか、アンブローシオ。

こうして二人の、〈ラ・カテドラルでの対話〉 が始まる。

『都会と犬ども』(1963: 27歳)を発表。『緑の家』(1965:29歳)を発表。そして本作、『ラ・カテドラルでの対話』(1969:33歳)を発表。オドリア大統領独裁時代(1948~56)のペルー社会を舞台に、独裁者批判、ブルジョアジー批判、父と子の確執などを取り上げる。独裁政権下ペルーの腐敗しきった社会の現実を多面的に描き出す。

「腐敗しきった社会の現実を多面的に描き出す」のだから、対話を通じて、濁りきった灰色の描写が延々と続くのではないか‥ 冒頭の2,3ページで、そうした予感を十分抱かせる小説。その意味できっちり世界設定をしている、と男は言った。

 

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