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こんにちは、河合隼雄です。ええ、なんといいますか、最近、感心しましたのは、中村桂子さんという方がおられまして、この方は生命科学の最先端の仕事をされておられますが、この方が、このごろ「生命誌」ということを強調しておられます。どういうことかというと、命あるものを対象にして、われわれが研究するときに、従来から考えられていたような客観的な記述だけでは十分とは思えない。みんなはまちがってDNAがわかったら何でもわかるかのように思ったりしているが、けっしてそういうことではないということを、生命科学の最先端を行く中村さんが書いておられまして、その最後に「もう残されているのは生命誌だ」と言っています。どういうことかというと、命についての物語を、各人がどう語るかということ、それがサイエンスだというのです。だから、これからのサイエンスは、生命科学ではなく、生命誌でなくてはならない、ということを書いておられまして、私はすごく共鳴するわけです。

この「生命誌」というのは、「学」ではなくて、「誌」なんですね。学という言葉はだめですね、とおっしゃっている。学問の約束事は大事ですが、学とすると、分野の中に閉じて、それ以外のことができなくなる。誌のほうが広がるし、物語を語れる、そうお考えなんですね。

そこで、特に思いましたのは、生命という不可解なものが入ってくるから、そうなるのであって、モノを相手にする場合に、そこまで言えるのかどうか。最近は、新しい物理学などが強調しますように、絶対的な客観ということは存在し得ない。ですから、これは物理学の最先端を行っている人は、ひょっとしたら「われわれも物語を語っているのだ」と言われるかもしれませんね。そんなふうに考えますと、私が便宜上、非常に違うものとして分けたものが、どこかでつながってきて、物語ということが、自然科学とも関連するようになってくるのではないか、と思うんです。

ここまでを一気に読むと、服部はノートを手元に置いた。「それは、河合隼雄の『物語と人間の科学』から?」と池谷が聞いた。そうだよ、と服部は言った。「初版は1993年か。生命に関するサイエンスは、生命誌でないと、っていうのが中村桂子さんのフィロソフィーだよね」「ああ」「サイエンスって、『知』のことでしょう。生命の知を追究するとナラティブが出てくるということだね」「ナラティブは矛盾も包摂できるからね」「ナラティブは生命を包み、学よりも柔軟かあ」「『学』って言ってもいいけど、それは “ナラティブとしての学” だね」「だったらそれは、従来の科学とは区分して, 『新しい学』だな」「じゃあ、『新しい学』は個別科学じゃなく、ナラティブが強調されるということだね」 時刻はほぼ正確に6時半だった。中庭に乗り付ける車の音が聞こえた。

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