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新聞記事は、新幹線の扉を開け、線路上に降りた男について報じていた。50代の男は、新幹線特例法違反の疑いで現行犯逮捕されたという。職員が車内に連れ戻した。話はできる模様と書かれていた。「どうして男の人は、非常用コックをひねって、外の世界へと出て行こうとするのかしら」と彼女はオレンジ・ジュースを飲みながら訊ねた。
「越境だろ」とぼくは言って、かりかりのベーコンをナイフで切って口に運んだ。
「そうね、越境ね。そうだわ」と彼女はこともなげに言った。
「そのトマトは食べないの」
「食べるけど、いる?」
「いや、いい」とぼくは言った。じゃあ、どうして聞いたの?といったことを彼女はけっして聞くことがない。ぼくはただ、自分の皿から相手の皿へと静かに視線を越境させただけなのだから。
書評欄には何冊かの本が紹介されていて、そのうちの一冊は、「知性の最良の部分を、世に分け与えることのできる人間についての本」とあった。他にもなにか書かれていたが、その部分だけをよく覚えている。
ちはやぶる 神代(かみよ)も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは 在原業平朝臣(あそん)。8月だが、一足早く紅葉の美しさを詠んだ句が載っていた。在原業平を検索すると、六歌仙のひとりという言葉と並んで、ドンファンDon Juan、イタリア語名ドン=ジョバンニと出てきた。新聞には、このほかにもいろいろな人間が出てきた。窓の外の雨はまだ降り続いていた。