私がいちばん惨めな気分になるのは、コーヒーを飲むだけの目的しかもたないような、あるいは商談だけが交わされているような、そんな店である。極論すれば、カフェやコーヒーハウスとは、コーヒーを飲む場所ではない、とさえ言っていい。そう、caféとは、コーヒーと引き換えに、知的な、あるものを味わうところなのである。
「あるもの」とは何か。
シュテファン・ツヴァイクは言う。
Café、それは新しいものに触れる、最良の教養の場であった。
フランスの場合、caféは、文学、芸術の孵化場になっただけでなく、革命の舞台裏の役割を果たすようになった。
フランス革命を準備したのはcaféだった、と言っていいほどである。フランスでは革命の拠点になり、イギリスではジャーナリズムの産みの親となり、オーストリアでは、文学をはじめ芸術の工房になった。
caféは今、caféの中にはない。
それはあらためて、つくるしかない。
しかもそれは、単なる文学カフェや、芸術家のたまり場などではない。
ひたすら専門分化していく場所ではなく、
物語も、芸術も、社会変革も連接していく場所である。
敗戦後、しばらくのあいだは、喫茶店が荒涼とした廃墟のなかで、魂のオアシスのような存在だった。一体、その日の食事にも事欠く東京に、コーヒーなどという贅沢なものが、どのようなルートで持ち運ばれたのだろうか。今でもわからない。しかし、なかには実に魅力的な構えを持つ店もあった。たとえば、交詢社ビルに近い銀座通りに面した「コロンバン」である。白く塗り立てた、フランス風の喫茶店が、焼けただれた銀座に復活したとき、私は思わず目を見張った。
廃墟の中の、白いcafé。