My First Publishing.
直訳すれば、私の最初の出版。つまりデビュー作。
どんな書き手も、特別の思いがあるに違いない。
——だが、フィッツジェラルドは一章も送ってこなかった。
翌日も、またその翌日も、彼は原稿を送ってこなかった。
1919年9月の第一週。
完成した決定稿がパーキンズの机の上に届けられた。
フィッツジェラルドは、原稿をかなり書きかえた。パーキンズの提案をことごとく取り入れていた。語り口を三人称に変えた。もとの作品から集めた素材を、ずっとうまく使いこなしていた。そして、作品の題名も新しくなっていた。
これが翌1920年に出版された作品、フィッツジェラルドにとっての My First Publishing、『楽園のこちら側(This Side of Paradise)』だった。
フィッツジェラルドは、マックスウェル・パーキンズから速達の手紙を受けとった。
「このことをお伝えするのは、わたし個人としてもまことに喜ばしい次第ですが、わが社の意向として、あなたの作品『楽園のこちら側』を出版することが決まりました。
前にお送りいただいた作品を尺度として考えますと、表現がいくらか変わり、全体として長くなってはいますが、非常によくなっていると思います。
第1稿もそうでしたが、このたびも活力と生気に満ちあふれており、わたしのみるところ、はるかに均衡が取れているように思われます・・・。
なにぶん異色な作品ですので、どれほど売れるか予測しにくいのですが、全社をあげてこの出版に賭け、精一杯努力する所存です」
ごく手短に、ふたりの協働関係を描いた場面。
パーキンズの不安が読みとれる。後の時代を生きる私たちは、この出版が大成功することを知っている。だが、ここにあるのは、その鮮やかな歴史が生まれる前の、当事者の姿であり声である。