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λανθάνω(ランタノー)

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井筒俊彦です。
今日は1つのギリシア語を入口に、「気づき」について、考えてみたいと思います。

いわゆる主客未分は、ここでは問いません。主客が分岐・対立している通常の経験的意識に、対象認知が起こる場合、そこへのアプローチの仕方は、言語慣用の規制力によって、つねに強力に限定され、方向づけられます。

たとえば、ギリシア語に λανθάνω(ランタノー)という動詞があります。今まで気づかなかった、というような意味でよく使われる動詞ですが、慣れないうちは、その用法がなんとなく不自然に感じられます。日本人の現在の言語慣用に反するからです。

「私はXに気づかずにいた」と日本人ならごく自然に使うところを、昔のギリシア人は「Xが私から隠れていた」と言う。主体の能動的動きに焦点を合わせるか、客体のあり方を強調するか、存在意識のパタンのちがいなのですが、そのいずれに優位を認めるかによって、認識論はもとより、形而上学も真理論も、決定的に異なる色合いを帯びてくることが、当然、予想されます。

「ランタノー」は、何かが隠れている、隠されている状態を意味します。だから、私はそれに気づかない。

世界はランタノーで満ちています。

世界はランタノーにあふれ、「Xは私から隠れている」。ですが時として、突然、覆いが取り払われることがある。ふと何かに気づき、その意外性が心を撃つ。それをアリストテレスは「驚嘆」と呼び、「驚嘆」こそフィロソフィーの始まりである、と言うのです。なぜそれが、フィロソフィーの始まりなのでしょうか。彼によれば、驚きは、問いを生み、それは知的な自己展開を生み出すからだ、というのです。

「気づく」とは、存在にたいする新しい意味づけが起こることを言います。一瞬の光に照らされ、いままで意識されていなかった存在の一側面が開顕し、それに対応する主体の側に詩が生まれる。「気づき」をもたらしたきっかけがどんなに微細、些細なものであっても、こころに沁み入る、深い詩的感動につながることがあるのです。

芭蕉の俳句にはそれが目立ちますね。「山路来て」「薺花(なずな)さく」「道の辺の木槿(むくげ)」をはじめ、その例は無数。このような、ふとした「気づき」の累積を通じて、存在の深層を探ってゆくのです。

さて、アリストテレスの場合、「驚嘆」は「問い」になり、原因と本質の探求へと向かっていきます。ところが、同じく「気づき」による「驚き」でも、日本詩人の場合はちがいます。それは彼を新しい知的発見に向かって進ませるよりも、むしろ「主客を共に含む場」にたいする、意識の実存的深化に彼を誘うのです。

もう少し別の言い方をしてみましょう。「気づき」は、ここでは、新しい客観的対象を客観的に把握することではありません(not discovery)。むしろ、それは、「意味」生成の根源的なトポス(場所)である、下意識領域のなかで、新しい「意味」結合が起こることです。「気づき」は、日本的意識構造にとっては、そのつど、そのつど、新しい「意味」連関を創りだしていくことであり、新しい存在事態の創造を意味するのです(invention)。「気づき」の意外性によって、下意識領域に潜む、無数の意味関連の流動的ネットワークに、微妙な変化が起きるのです。

「主客を共に含む場」にたいして、新しい「意味」の連鎖連関、あるいは意味の生態系を創りだしていく。古来、日本人は、この種の体験に強い関心を抱き、研ぎすまされた美的感受性の冴え、を示してきました。

これは、日本的精神文化そのものを特徴づける創造的主体性の、決定的に重要な一局面、ということができるのです。

 

 

reference material: 井筒俊彦 『読むと書く』 より編集・作成

 

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