慶應義塾の初期メンバー

投稿者: shidarapress

1858年、福沢諭吉が蘭学の塾として開設。1868年に慶應義塾と改称し、1920年に慶應義塾大学となった。

福沢が江戸に蘭学塾を開いたのは藩命によるもので、奥平家の中屋敷をその場所とした。初期の福沢塾を構成したのは、福沢が17年半にわたって暮らした中津藩出身者たちであった。和田慎次郎(のちの福沢英之助)、和田克太郎、小幡弥が最古参。

1864年の中津帰省時には、英学と塾の発展を担う若者を求め、小幡篤次郎、小幡甚三郎、浜野定四郎、服部浅之助、三輪光五郎、小幡貞次郎の6人をつれて江戸に戻っている。また藩の重役である島津祐太朗の子・島津万次郎や、旧藩主にあたる奥平昌邁も、福沢のすすめで慶應義塾に入塾している。

なお、明治元年の1868年あたりは中津でも攘夷論者が活動しており、福沢は朝吹英二や増田栄太郎らの暗殺ターゲットとなっていた。しかし朝吹と増田さえ、その後、福沢の考え方を受け入れて慶應義塾に入塾している。

また福沢は、中津から人材を見いだす一方、中津の地でも人びとが英学を学び、新しい社会の担い手となってゆくことに大きな関心を払っていた。

1871年の帰省時には、藩の重役に対し、英学を学ぶことのできる学校の開設を勧めている。この働きかけが、翌1872年、中津市学校の創設として具体化される。旧藩主の名で発表された市学校の設立趣意書は、もとはといえば福沢による立案だった。1873年、旧藩主である奥平一家の東京転居に同伴するため中津に帰省した際、この市学校にも足を運び視察している。

設樂剛事務所

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