慶應義塾維持の資金あつめに失敗すると、福沢は、当時の慶應義塾 塾長だった浜野定四郎に手紙を書く。こう綴られていた。「開塾以来、20年あまりがすぎた」「一生涯の仕事としても沢山」。義塾の運営に見切りをつけたのだ。そして慶應義塾の解散さえ提案した。明治13年10月のことだった。
Some postcards for a post-disciplinary approach —新しい「知と方法」の探究—
慶應義塾維持の資金あつめに失敗すると、福沢は、当時の慶應義塾 塾長だった浜野定四郎に手紙を書く。こう綴られていた。「開塾以来、20年あまりがすぎた」「一生涯の仕事としても沢山」。義塾の運営に見切りをつけたのだ。そして慶應義塾の解散さえ提案した。明治13年10月のことだった。